伊達政宗の側近
人取橋の戦い、摺上原合戦などで軍功をあげた

伊達 成実だて しげざね

伊達成実

伊達成実 肖像画

  ポイント

  • 伊逹一門・伊達実元の子
  • 伊達政宗の側近
  • 伊逹一門として人取橋の戦いや摺上原合戦などで軍功をあげる

誕生・死没

  • 誕生:1568年
  • 死没:1646年
  • 享年:79歳

同年代の人物

名 前

  • 時宗丸(幼名)
  • 藤五郎(仮名)
  • 兵部(受領名)

所 属

官職・役職

  • 安房守

親 族

  •  父 : 伊達実元
  •  母 : 伊達晴宗の次女(鏡清院)
  • 正室 : 亘理御前(亘理重宗の長女)
  • 継室 : 岩城御前(二階堂盛義の娘)

略 歴

1568年…伊逹実元の嫡男として生まれる
1579年…大森城にて元服(烏帽子親は伊逹輝宗)
1583年…家督を継いで大森城主となる
1585年…人取橋合戦で伊達政宗を逃がす等の活躍をする
1586年…大森城から二本松城へ移る
亘理重宗の長女をめとる
1588年…郡山合戦では敵将・大内定綱を調略する活躍を見せる
1589年…摺上原合戦では伊達軍の中核を担う活躍を見せる
1590年…小田原征伐では黒川城に残った
1591年…政宗の岩出山城への転封にともない、居城を角田城へ移す
1592年…文禄の役に従軍する
1595年…正室・亘理御前が伏見にて病死
秀次事件に署名する
1593年…この頃に出奔する?
1600年…関が原合戦で伊達氏に帰参し白石城攻めに合流する
1603年…亘理城に入り5095石を拝領する
1606年…政宗の娘・五郎八姫と家康の子・松平忠輝の婚礼の使者に任命される
1614年…大阪の役に参陣する
1646年…家督を養嗣子・宗実に家督を譲る
この年に死去する(病死)

家計図

概 要

伊達家臣。実元の子。「武」の面で主君の政宗を補佐した伊達家中随一の猛将。「英毅大略あり」と評された。晩年には徳川家光に奥州の軍談を語っている。

生い立ち

1568年、信夫郡大森城主・伊達実元の嫡男として生まれる。幼少の頃には、時宗の僧・了山和尚(伊達郡粟野村の専念寺住職)を師として学問を修めた。1579年、大森城にて烏帽子親を伊達輝宗として元服。
1583年、家督を継いで大森城主となり、伊達領南方の抑えを担う。

数々の戦での活躍

1585年の人取橋の戦いでは、伊達勢が潰走する中にあって奮戦して政宗を逃がす。また同年、小手森城を攻めて落城させた際に、政宗の命を受けて場内の男女800人をすべて惨殺させている。
1586年9月13日には大森城から二本松城主へと移され、旧領の信夫・伊達両郡に換えて安達郡三十三邑の所領(およそ38,000石とされる)を与えられた。同年12月、亘理重宗の長女を娶る。1588年の郡山合戦では、寡兵で蘆名義広の攻勢をしのぐ一方で大内定綱を調略して帰参させ、1589年の摺上原の戦いでは、突出した敵の側面を強襲して合戦序盤の劣勢を覆すなど、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げた。

小田原征伐とその後

1590年5月、小田原征伐では政宗が小田原攻めに遅参したため秀吉との全面対決を主張し、臣従を主張する片倉景綱と激しく対立するが、結局伊達氏は臣従を選択することになる。政宗が参陣するなか成実は黒川城に残って留守居役を務めたという。
同年10月に発生した葛西大崎一揆鎮圧にも従軍したが、一揆煽動が露見して政宗が秀吉に上洛を命じられると、国分盛重と共に蒲生氏郷への人質として名生城に入った。

1591年、政宗の岩出山城への転封にともない、成実は二本松に代わって角田城主田手宗実の旧領である伊具郡16か村・柴田郡1か村を与えられ、居城を角田城へと移した。
1592年には文禄の役に従軍。帰国後は政宗に従って伏見の伊達屋敷に駐在した。
595年6月4日、正室・亘理御前が伏見にて病死。同年8月24日には秀次事件に関する在京家臣団一同の誓詞に石川義宗に次いで2番目に署名している。

出 奔

1593年、伏見に居た成実は突如として伊達家を出奔する、理由は諸説あり下記に記載する

① 家中での席次を石川氏に次ぐ第二位とされた上に禄高も少なくされたことへの不満が原因であるとする説。
② 秀次事件への政宗の連座を避けるために嫌疑の内容を自らが被って隠遁したとする説
③ 秘密工作実行のために政宗の命を受けて出奔したと描くようなものもある
また、出奔先も高野山と相模国糟谷(現在の神奈川県伊勢原市)の両説がある。

出奔後成実の居城・角田城は政宗の命を受けた岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収され(成実の家臣・白根沢重綱らの内報を受けた景頼が角田城を急襲したともいわれる)、この際に抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、成実の家臣団は解体された。なお、成実の妻子が角田城接収にあたり、景頼によって殺害されたというのは全くの誤りである。上記の通り、成実の正室・亘理御前は既に他界しており、この時点で他に妻子が存在したことを示す史料も存在しない。

1600年、関ヶ原の戦いが起こると、成実は上杉景勝から禄高5万石で家臣となるよう誘われたが、「本来ならば家臣筋の家に仕えるつもりはない」としてこれを拒絶した。
また出奔中に大久保忠隣を介して徳川家康からも誘いを受けたが、政宗に奉公構(刑罰の一つ)により破談になったという。同年秋、伊達政景・片倉景綱らの説得によって帰参し、7月の白石城攻めにも石川昭光の軍に属して参加したといわれる。

晩 年

関が原合戦後は白石城に移った片倉景綱に代わって亘理城(亘理要害)に入り、5,095石を拝領した
1606年には政宗の娘・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝の婚礼の際の使者や、慶長19年から20年(1614~15年)にかけての大坂の役参陣、1622年の最上氏改易にともなう野辺沢城接収など数々の大役を担う。政宗没後、第2代藩主・忠宗の下でも家中の長老として重きをなした。
また所領の開発・復興策にも力を注ぎその力を発揮している。
そして1646年2月9日、養嗣子・宗実に家督を譲り、同年6月4日に死去。享年79。
墓所の大雄寺にある伊達成実霊屋は昭和49年(1974年)に実元霊屋・実氏霊屋と共に亘理町指定文化財となり、1979年には伊達成実霊屋(附:木造彩色甲冑像)が宮城県指定有形文化財となった。

逸 話

兜には毛虫をかたどった前立をつけていた。これは「決して後ろに退かない」という毛虫の習性にあやかったものだという。この毛虫の前立は、現存する紺糸威五枚胴具足(伊達市所蔵)と亘理町の大雄寺木像甲冑像で確認できる。

大雄寺木像甲冑像 大雄寺木像甲冑像

『政宗記』によれば、人取橋の戦い後、渋川城に逗留していた折に、近習が誤って鉄砲用の火薬箱の中に火を落としてしまい、城が全焼した。この火事で成実は右手の指が全てくっついてしまうほどの大火傷を負い、生涯そのままだったという。帰参後は政宗との関係も良好であったようで、政宗から成実への「別に用はないが、この頃逢っていないから手紙を書いた」という内容の書状も残されている(「伊達政宗文書」1800・平成『仙台市史』資料編所収)

参考資料(引用元)

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