【】
【戦国武将達の正室や側室とそのエピソード】
武田勝頼
★ 北条夫人(正室)
(1583年~1582年)
子供無し
● 北条氏康の六女。名は不明だが、嫁いでから北条夫人といわれた。武田勝頼が32歳、北条夫人が14歳の時に二人目の正室として嫁いだ。
● 嫁いだ翌年に上杉謙信が死亡し謙信の甥・景勝と謙信の養子・景虎(北条夫人の兄弟姉妹)が家督争いを起こす。
武田勝頼は景勝側についたため、北条夫人は夫と実家(北条家)との間で板挟みで悩んだといわれる。
● 北条夫人は子供がいないにもかかわらず、傾き始めていた武田家再興に尽力し、木曽義昌の討伐に出陣中、武田八幡に戦勝を祈る自筆願文を奉納している。
● 織田信長におる甲州征伐により武田勝頼が城を捨てて逃走する途中、勝頼は婦人に実家へ帰るようにすすめたという。しかし、北条夫人これを拒み勝頼と共に自刀した。
● 辞世の歌:「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき思いに消えゆる露の玉の緒」
山内一豊
★ 千代(見性院)
(1557年~1617年)
子供一人
● 浅井家の家臣、若宮友興の娘。名は「千代」、「おまつ」とも呼ばれた。父が戦死したあと、母方の親戚に育てられた。
● 15歳前後で、織田家の家臣、山内一豊に嫁ぐ。一豊の母(梶原氏)の侍女をしていて、才覚を見込まれたという説もある。
● 信長が浅井・朝倉攻めの「馬揃い」を催した際、持参金をはたいて夫に名馬を持たせ、信長に認められるきっかけを作った。
この話が「内助の功」として、今でも語り継がれる逸話になっているが、実際は馬でななく、時計だったらしい。当時の信長は
南蛮製の時計に凝っていて、一豊がこれみよがしに下げていた大きな時計が目にとまったのだという。
● 関ヶ原の戦いのときは、家康に従う夫に大阪の情勢をコヨリの手紙にして知らた。一豊はこの功績で土佐二十四万石の所領を得た。
● 一人娘は地震により早死、子には恵まれなかったが、その後、禅宗に入門した。一豊は側室を置かなかったため、一豊の死後は甥・忠義に家督を譲り、「見性院」と称した。
石田三成
★ 三成室
(生年不詳~1600年)
子供は八人:重家、源吾ほか
● 名前は不詳。宇多頼忠の娘といわれる。一説には菊亭晴季の娘で、真田昌幸に嫁いだ山之手殿の姉妹という説も…
● 夫・石田三成が関ヶ原の戦いで大敗。家臣らと留守を守っていた佐和山城は、家康側に寝返った小早川秀秋の大軍に包囲された。
夫人は子供たちを脱出させたあと、家臣が三成の妻らを斬殺。天守閣に火をかけ、佐和山城は落城した。
子らは乳母や侍女の機転もあり全員生き延びたという。
今川義元
★ 定慶院(じょうけいいん)(正室)
(1519年~1550年)
子供は三人:氏真、貞春、女
● 武田信虎の長女で、母は正室の大井夫人。信玄は同腹の弟。
● 1537年、18歳で今川義元に嫁ぐ、義元は20歳。この婚姻が「甲駿同盟」の証となり、後に嫡子となる「氏真」を出産する。
● 駿河の嫁ぎ先から甲斐の実家に甲斐を送り、信玄はこれで今川方の兵数を推測したという。
● 32歳で世を去り、葬儀は臨済寺の太原雪斎和尚が修した。
伊逹政宗
★ 愛 姫(正室)
(1569年~没年不詳)
子供は四人:忠宗、宗綱、竹松丸、五朗八姫
● 福島の豪族で三春城主、田村清顕の娘。わずか11歳で、12歳の伊達政宗に嫁いだ。
● 愛姫が輿入れした日に政宗の暗殺未遂事件が発生する。田村家の陰謀と考えた政宗は、田村家から同行した乳母や侍女を数多く処刑した。(政宗の母・義姫の陰謀ともいわれるが真相は不明。)
● 夫婦仲はイマイチだったという説もあるが愛姫は温厚な性格で、健気に夫に尽くした。
● 秀吉の人質として伏見にいる間、自分のことは心配しなくてよいからと、政宗に激励の手紙を送っている。
● 政宗の死後は剃髪し、「陽徳院」と称した。
細川忠興
★ 細川ガラシャ(正室)
(1563~1600年)
子供は五人:忠隆、興秋、忠利、たら、まん
● 明智光秀の三女で、名は「玉」。母は正室の煕子(ひろこ)。光秀は生涯、煕子だけを妻とし、側室を置かなかった。
● 玉は16歳のとき、織田信長の媒酌で同い年の細川忠興と結婚。このとき、信長は「とてもかわいいカップルが誕生した」と大喜びだったという。その後、ガラシャは三男二女の子を産んだ。
● 忠興は妻を熱愛したが、独占欲も過敏だった。庭先から妻を見たというだけで職人の首をはねたという逸話もある。
● 女好きな秀吉が玉の美貌に目をつけていたため、忠興は戦場から玉に注意を促す歌を送った。また、玉が秀吉にあいさつに出向いた際に、秀吉の前でわざと短剣を落としてみせ、夫への忠義を示したという。
● 光秀が本能寺で信長を襲撃、玉は逆賊の娘として丹波に幽閉の身となる。玉に自害を求める家臣を、忠興が押しとどめたといわれる。
● 2年間の幽閉が解かれた玉だが、17人の侍女をつけられ、外出を禁じられた。幽閉中に忠興が側室を迎えたことを知る。この頃から玉は熱心なキリシタンだった侍女、清原マリアの影響を受けキリスト教へ興味を示していく。
そして、キリシタン禁令が発せらえたが、玉は洗礼を受け、ガラシャを名乗った。
● 妻の入信を知った忠興は激怒し、侍女たちの耳や鼻を削いで追放。ガラシャののどもとに刀を突きつけて棄教を迫ったともいわれる。しかし、ガラシャのこのがんこさは父・光秀の厳格な性格という生いだちにも関係がある。
● 1600年、関ヶ原の戦いに先立ち、石田三成は家康側につきそうな武将夫人を人質にとる作戦にでる。三成はガラシャにも同行を求めるが、ガラシャは拒否。嫁や娘たちを逃したあと、館に火をかけ、家臣たちに胸を突かせて死んだ。38歳だった。
● ガラシャの死で三成の人質作戦は中止に追い込まれ、細川家は徳川家につき存続した。
浅井長政
★ お市の方(正室)
(1547~1583年)
子供は五人:茶々、お初、お江、万副丸、万菊丸
● 尾張の豪族、織田信秀の娘。母の名前は不詳で兄は織田信長。
● まれに見る美貌の人として、早くから近隣に知られていた。「太閤記」も「東国一の美人」と称している
● 16歳の時に、信長の命で小谷城主・浅井長政に嫁ぐ。長政は19歳。このため小谷の方ともいわれた。
● 典型的な政略結婚だったが、長政との夫婦仲はよく、二男三女を出産した。
● 長政が兄・信長を裏切り討伐の軍を送ると、お市は信長の陣中に陣中見舞いと称し、袋詰めにして両端を荒縄で固く縛った小豆を送る。信長はこの袋をみて、自分が浅井・朝倉両軍に挟まれた
「袋のネズミ」と知り、急いで退却、危機を逃れたという。
● 信長が浅井家を攻略、長政は場内で切腹する。お市の方は長政の説得で三人の娘とともに、落城間近の小谷城から信長のもとへ帰された。長政がお市の方の美貌を惜しんだためといわれる。
このとき、逃した息子の一人は秀吉に捕らえられ、串刺しにされた。
● 織田信長の死後、柴田勝家と再婚したお市だったが、秀吉に攻められて長政との間にできた三人の娘を秀吉に託し出し勝家と共に自害する。このとき勝家はお市に娘たちと脱出するよう説得するが、お市の方はこれを拒み、自ら死を選んだと云われる。勝家62歳、お市の方36歳だった。
● のちに娘の淀殿がお市の方の供養のためにと描かせた肖像画も、気品高い姿になっている。現在、この肖像画は高野山持明院に残っている。
武田信玄
★ 上杉朝興の娘(正室)
(生年不詳~1543年)
子供なし
● 関東の名門・扇ヶ谷上杉家の娘で、父は朝興。名前は不詳。
● 当時、朝興はたびたび北条氏に攻められていた。そこで隣国の武田家との同盟を強化するため、娘を武田信虎の長男・太郎(信玄)と結婚させた。
このとき、信玄13歳、夫人は1歳年上か同い年だったと云われている。
● 結婚後間もなく、信玄の子を妊娠するが、翌年難産のため母子共に死亡している。
★ 三条夫人(正室)
(1521~1570年)
子供は五人:義信、竜宝、信之、黄梅院、見性院
● 左大臣三条公頼の娘。名門公家(七清華の一つ)の出で、京都育ち、品がよく、洗練された美人だったといわれる。名前は不詳。
● 信玄が16歳で元服した際、公頼が朝廷の使いとして下向してきた。その4か月後に両者は結婚している。同じ年だったといわれている。
● 三条夫人は実家のコネを活用して、信玄の勢力拡大に貢献していた。プライドが高く、嫉妬深かったといわれ、側室たちは相当いじめられたらしい。
● 三条夫人は不運の夫人として有名である。三男二女を産んだが、長男・義信は信玄との確執があり30歳で自害、二男は生まれつきの盲目、三男と娘の一人は若死。今川家に嫁いだ黄梅院は信玄の駿河侵攻に伴い離縁しまもなく死亡した。
● 信玄が死没すると武田家は側室の子・勝頼が家督を継ぐことになり晩年は不遇の生活を送っていたといわれている。
★ 諏訪御料人(側室)
(生年不詳~1555年)
子供は一人:勝頼
● 信玄の義弟、諏訪頼重の娘。母は頼重の側室・小見氏。頼重は信玄より年上だったが、信玄の妹・禰々を正室にしていた。
● 信玄は頼重を攻め、切腹させる。信玄の妹で頼重の正室・禰々は半年後の16歳で病死。頼重の娘達は信玄によって甲府に連行し、その後、側室にした。当時、諏訪御料人は12歳か13歳で美少女だったといわれている。
● その後、15歳ぐらいで四男・勝頼を出産。勝頼は武田家の当主に就任、信玄は勝頼をたいそう可愛がったため、諏訪御料人は正室の三条夫人をはじめ、その他の側室から嫉妬やイジメにあっていたという。
● その後、24歳頃に若死している。