ポイント
- 佐藤好信の次男
- 伊達家に内応し父の仇である左馬助を斬殺する
- 葛西大崎一揆鎮圧戦である佐沼の戦いで戦死した
概 要
佐藤好信の子。小斎城主。父の怨みを晴らすため、伊達家からの内応の誘いに応じて相馬家からの離反し、相馬家家臣・郡左馬助を討ち、父の敵をとる。のちに葛西大崎一揆鎮圧戦内の「佐沼の戦い」で戦死した。
誕 生
相馬氏家臣・佐藤好信の二男として生まれるが、為信の誕生年はわかっていない。
相馬家での活躍
佐藤為信は父の好信、兄の清信と共に相馬氏の家臣として伊達氏との合戦で武功を挙げ、伊達方から奪取した小斎城の城代に任命された。
離 反
為信の父・好信が相馬家家臣・桑折左馬助の策略によって軍奉行を解任、さらに所領を奪われ1579年に失意のうちに死去すると、為信は父の怨みを晴らすため、伊達輝宗からの内応の誘いに応じて相馬家からの離反を決意することになる。
復 讐
1581年4月、相馬家臣・左馬助(父・好信の仇)が手勢を引き連れて為信の居城である小斎城に援軍に来ると、為信は左馬助を斬殺して城ごと伊達方へと寝返った(『伊達世臣家譜』では、父の遺命に従って怨みを晴らしたとしている)。
伊達輝宗はこれを大いに喜び、為信に小斎城と知行1,000石を安堵し、一族の家格を与えたという。
伊達家での活躍
伊達家に仕えてから小斎城主として対相馬戦で活躍した。
丸森城・金山城奪還作戦において武功を挙げ、1588年の郡山合戦では金山城主・中島宗求と共に相馬軍の伊具郡への侵攻を撃退した。
1590年5月には嫡男の勝信と共に駒ヶ嶺城攻めの先陣を務めている。
最 期
豊臣秀吉が小田原征伐を行った翌年の1591年、陸奥で葛西大崎一揆が発生すると為信もこの鎮圧戦にも従軍した。
しかし、1591年6月24日、佐沼城攻略戦のさなかに兜の八幡座(兜の頭頂部にある髷を出す穴)を射ち抜かれて討死した。
以後、佐藤家は嫡男の勝信が家督を相続し、佐藤氏は幕末に至るまで小斎の領主として同地を治めた。