1.城データ
年 表
1538年… | 伊達氏段銭帳に「こさい」の記載有り(伊達氏の支配下であった) |
1566年… | 相馬氏が小斎城を略奪 |
1570年… | 相馬氏家臣・佐藤氏が城代として入城する |
1583年… | 佐藤氏が城ごと伊達氏へ離反する。 引き続き佐藤氏が城代ろ勤める |
立 地
伊具郡南部の中心である丸森のやく6Km東方に位置し、東へは亘理郡、南東へは宇多郡方面へ通じる交通の要衝である。
小斎城はこの小斎集落の北側の比高60mほどの丘陵に築かれている
この小斎を含む伊具郡南東部は、伊達・亘理・相馬氏の諸氏勢力が接する地であり、伊具郡の大部分を手中に収めた伊達氏も16世紀時点でまだ完全に掌握したわけではなかった。
規 模
相馬氏と伊達氏の争奪戦の舞台であった小斎城は境目の城にふさわしい厳重な防御策が施されている。
小斎城は東西に細長く続く尾根を形成して構築されている。本丸が位置するのは八重神社が立つ東西約50m、南北約30mの長方形の平場でこの本丸を挟みこむように東西の尾根上に郭が展開する。
二の丸は本丸とほぼ同じ高さで、もともとは連続した地形であったものを、堀切で人為的に分断したものと推測される。東西の長さは80mに達し、その西端は短い土塁状の高まりとなった後深さ10mに及ぶ大堀切りとなっている。
城の西側には「西館」と呼ばれる100m四方の山城が存在している。周囲には切り岸や土塁が、腰郭などが存在していたと思われる。
城詳細図
相馬と伊達の抗争
1538年の伊達氏段銭帳に「こさい」と記載されていることから、伊達氏の支配下にあったことが確認される。
しかし、1566年天文の乱が晴宗側の勝利に終わると相馬氏と伊達氏の関係が悪化、伊達稙宗が死去すると、相馬氏は伊具郡南部へ勢力を広げ小斎、金井、丸森といった要所を手中に収めた。
以後、伊達氏は伊具郡奪還のため連年に渡り出兵するが、相馬氏の抵抗は頑強で、15年近く相馬氏が抑え続けえた。
相馬氏家臣・佐藤為信が城代として入場するが、1581年佐藤為信が、伊達輝宗からの内応の誘いに応じて城ごと伊達家へ寝返ります。
輝宗はこれを大いに喜び、佐藤為信に小斎城と知行1,000石を安堵し、一族の家格を与えた。以後は小斎城主として対相馬戦で活躍します。
戦国時代後
戦国時代が終わり江戸時代に入ると、小斎城は境目の要所にありながら仙台判の要害へと転化することなく廃城になります。
小斎城は境目の城として技巧をこらしたものではあったが、全体的には規模が狭小であったため、近世初期に行われた支城整理の際に廃城になったといわれています。