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1.城データ
概 要
宮城県を代表する山城の一つであり、国史跡に指定されている。現在は高森山公園として整備されている。戦国時代は伊達家家臣・留守氏の居城であった。その後元亀年間(1570年~1573年)に留守氏は居城を利府城(村岡城)に移し、岩切城は廃城となった。
立 地
岩切は陸奥国府・多賀城から西に約1里(約4km)に位置し、七北田川と奥大道とが交差する陸奥国の交通の要衝である。古代の岩切には多数の市場ができ、東北地方最大の商業地域となっており政治的にも経済的にもこの地域の中心だった。頂上からは仙台平野。仙台市街地が一望できる。
規 模
岩切城は大きく分けて西郭群と東郭群とで分かれている。その城域は東西約500メートル、南北約400メートルの天険の地を城域としており、標高106メートルの高森山の尾根を3段ないし4段に削平して中心となる曲輪を設け、峰続きの台地や谷を隔てた丘陵や台地の各所にも曲輪を置いて掘割を造って防御をかためている。
留守家と岩切城
戦国時代になると留守氏は伊達氏の強い影響力のもと、岩切城を居城とする有力領主へと成長し、「高森殿」と呼称されるようになっていった。現在みられる遺構は、このころに整備されていったものと思われる。
留守氏は隣の国分氏としばしば争っており、岩切城からほど近い松森城や小鶴などで合戦が行われている。また、1567年に伊達晴宗の三男・政景が養子入りすると、それを巡って留守家中は分裂し、家臣の村上右衛門らが反乱を起こした。
廃 城
1570年ごろ村上氏の反乱を鎮圧した城主・留守政景は岩切城を廃城とし、村上氏の居城であった村上城に移り、名を利府城に名を改めたという。