芳賀家に擁立され家督を継ぐがその後対立し自害に追い込まれる

宇都宮 興綱うつのみや おきつな

宇都宮家居城・宇都宮城

  ポイント

  • 宇都宮家19代当主
  • 出生に諸説有り
  • 芳賀、壬生家と対立し自害に追い込まれる

誕生・死没

  • 誕生:1476年
        又は1514年
  • 死没:1536年
  • 享年:60歳又は23歳

名 前

  • 不 明

所 属

官職・役職

  • 官位: 従四位下 下野守
    左衛門尉
    左衛門督

親 族

略 歴

1476年…宇都宮正綱の次男として誕生
1523年…猿山合戦にて宇都宮忠綱が結城氏に破れ宇都宮城から追放される
芳賀、壬生家に宇都宮家当主として擁立される
1524年…忠綱の代わりに宇都宮の当主となる
天文年間壬生と対立しその争いに敗れ隠居する、その後に自害する。

出 生

興綱の出生には大きく分けて3説ある。
まず、通説となっているのが16代当主・正綱の次男とする説である。下野国誌を始めとして、数多くの文献や古典は、これを通説として書かれている。

もう1説は成綱の三男とする説である。この説の根拠に古河公方足利高基から上総武田氏一族の長南三河守に充てた書状に「宇都宮事、名代若輩故、しかゞゝ共無之様候之間」と記され、当時の当主であった忠綱に代わって“若輩の名代(当主代行)”が擁立されたことが判明する。忠綱が当主を追放されて以降、興綱以外の人物が擁立された事実を示す史料もないことから、当時の興綱が少年であったことを示している。また、最初は芳賀氏の養子となって同氏を継いでいたと言われているが、これについても否定的な説もある。

最後の1説が忠綱の子であるとする説(宇都宮忠綱子息説)だ。堀田芳賀系図 芳賀高綱の項「大永七年十月六日忠綱卒 法名長雲 子息興綱号下総守」などの史料に裏づけがなされている。

家督相続

1523年、宇都宮忠綱が猿山合戦で結城家に破れ、宇都宮家の重臣・芳賀、壬生両家から宇都宮城を追放されると、興綱は芳賀高経ら反忠綱派の家臣に擁立され家督を継承する。興綱自身も忠綱の行き過ぎた勢力拡大に反対だったと伝えられています。

芳賀、壬生家との対立と自害

芳賀家と壬生家の擁立によって家督を継承した興綱ですが、興綱が成人して独自の行動を取るようになると芳賀高経、壬生綱房と対立するようになり、やがてその争いに敗れた興綱は隠居を余儀なくされ、その後に自害しました。