宇都宮家18代当主
芳賀家と対立し宇都宮城を追放される

宇都宮 忠綱うつのみや ただつな

宇都宮家居城・宇都宮城

  ポイント

  • 宇都宮家18代当主
  • 宇都宮成綱の嫡男
  • 家中を掌握しようとするが芳賀家の反発にあう
  • 結城家と戦中に宇都宮城を芳賀家に占拠され追放される
  • 宇都宮城の奪還に紛争するが31歳の若さで死去(暗殺?)

誕生・死没

  • 誕生:1497年
  • 死没:1527年
  • 享年:31歳

名 前

  • 藤寿丸(幼名)
  • 弥三郎

所 属

官職・役職

  • 官位: 下野守
    左馬権頭
    右馬権頭
    左馬頭

親 族

略 歴

1497年…宇都宮成綱の子として誕生(芳賀成高の説も有り)
1506年…永正の乱 足利高基を支持する
1511年…宇都宮成綱と芳賀高勝の争いが激化し父・成綱が隠居し芳賀高勝によって忠綱が家督を継ぐ(宇都宮錯乱及び、永正の内訌の収束)
1514年…竹林の戦い」が勃発。総大将として佐竹・岩城勢と一戦しこれを撃退する。
1516年…縄釣の戦い」が勃発。再び佐竹・岩城勢と一戦し、これに大勝し結果、永正の乱に勝利する
父・宇都宮成綱が死去し名実ともに宇都宮家の当主となる。
成綱が死んだことにより結城家との関係が悪化
1523年…芳賀家が結城家と内通。結城家が宇都宮領に侵攻し「猿山合戦」が勃発
この戦いに負けた忠綱は宇都宮城を追放される
「河原田合戦」が勃発。皆川家を攻めるが小山氏、結城氏が援軍に駆けつけ撤退する。
1527年…死 去(壬生綱房が忠綱を見限り、興綱に内通して寝返った綱房の謀略によって暗殺されたともいう)

出 生

通説では「宇都宮家の中興の祖」と呼ばれた宇都宮成綱の嫡男と言われ姉妹に瑞雲院(足利高基妻)が存在ていることになっているが、近年の研究では、尚綱・興綱は忠綱の弟という説もある。(江田郁夫編 『下野宇都宮氏』

家督相続

宇都宮家には重臣・芳賀高勝が権力を振舞っていた。その力は当主成綱とほぼ同等であったといわれている。また時代は永正の乱の最中で成綱は婿である足利高基を支持、高勝は古河公方足利政氏を支持。権力者二人の意見が相違したことによって、宇都宮家中は大混乱し、家中は二つに分裂した。
1511年になると成綱と芳賀高勝の争いが激化し、武力衝突にまで発展するが、高勝の謀略によって父・宇都宮成綱は強引に隠居させられた。同時に、芳賀高勝によって忠綱が擁立され、遅くとも1512年には、宇都宮氏第18代当主となった。しかし、隠居後も父・宇都宮成綱が実質的な当主であり、実権を握っていた。また、父・成綱はこの間に弟 (忠綱にとっては叔父)の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせており、また、同じく父・成綱の弟 (忠綱にとっては叔父)の兼綱も武茂氏の家督を継承している。

宇都宮家の内紛(宇都宮錯乱)

1512年成綱は、芳賀高勝を謀殺した。これによって芳賀氏与党が大反乱を起こし、宇都宮錯乱と呼ばれる内紛へと発展した。足利高基による支援や家臣の壬生綱重らの活躍により、約2年かけてこの乱を鎮圧。芳賀氏は宇都宮成綱・忠綱を頂点とする新しい支配体制に取り込まれる形で宇都宮錯乱及び、永正の内訌は収束した。
忠綱は奥州伊達氏の伊達稙宗に佐竹氏・両那須氏へ攻撃するための連絡をとったりしたり、また、中には1513年に一向寺(現・宇都宮市西原)の諸公事等を免除した文書のように父・成綱の意思とは関係なく自らの意思で発給しているものもあった。

岩城・佐竹との争い

-竹林の戦い-
足利政氏が佐竹・岩城軍に宇都宮家討伐を命令、両軍は那須口で対峙し結城家の援軍もあり、何とか忠綱が勝利する

1514年、古河公方家の内紛で足利政氏を支持していた芳賀氏が、宇都宮錯乱を経て足利高基を支持していた宇都宮成綱・忠綱の支配体制に取り込まれることによって、当時祇園城に移座していた足利政氏の背後の守りがなくなった。
これに危機感を覚えた古河公方足利政氏は、佐竹氏・岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜・岩城由隆・佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は2万もの大軍を率いて下野国に侵攻。同時に、宇都宮氏と佐竹氏による北関東の覇権を巡っての争いの1つでもあった。

それに対し宇都宮忠綱が宇都宮成綱の名代として出陣。17歳という若さで総大将を任された。忠綱は佐竹・岩城勢と那須口で対峙し、一戦している。那須氏は足利政氏を支持しており、佐竹氏と同盟関係を結んでいたためにここでの合戦は宇都宮勢にとって不利だった。ここで忠綱は敗北し、宇都宮に撤退。佐竹義舜・岩城由隆は撤退する忠綱に追撃をかけた。

下野国宇都宮竹林で両氏は再び対峙した。父・宇都宮成綱、同盟関係の結城氏の結城政朝・山川朝貞・水谷勝之などの援軍によって撃退に成功している。忠綱は、何とか勝利することができた。

-縄釣の戦い-
竹林の戦いから2年後、佐竹・岩城軍は再び下野に侵攻した、忠綱これを撃退し佐竹・岩城軍に壊滅的なダメージを与えた、またこの戦いにより足利政氏の敗北は決定的になり、足利高基は名実ともに古河公方となった

上記の竹林の戦いから2年後の1516年6月、佐竹義舜は再び奥国の岩城由隆とともに大軍を率いて下野国に侵攻。
忠綱は父・成綱と出陣し、佐竹義舜・岩城由隆勢と下野国上那須庄浄法寺縄釣で対峙し、一戦した。結果は大勝で佐竹義舜・岩城由隆勢は撤退。宇都宮勢はそのまま追撃し、下野国武茂庄で一戦し勝利、さらには常陸国の月居まで侵攻して佐竹義舜・岩城由隆勢に壊滅的な被害を与えた。
近臣である永山忠好の文書から、この合戦で佐竹方の城や砦を多数落としたことが判明している。

この合戦で足利政氏の敗北は決定的になり、足利高基は名実ともに古河公方となった。これによって高基の義父である宇都宮成綱や義兄弟である忠綱の権威も相対的に強化され、また、佐竹氏との覇権争いに勝利し、下野宇都宮氏は全盛期を迎えた。

宇都宮成綱の死去

1516年、「宇都宮家の中興の祖」と呼ばれた父・成綱が死去した。
これによって名実ともに下野宇都宮氏の当主となった。忠綱は叔父である塩谷孝綱、武茂兼綱の補佐を受けて父の遺志を継ぎ、下野宇都宮氏のさらなる躍進を狙った。笠間氏や奥州伊達氏などとの連絡も多く行っており、家中支配のさらなる強化も行っている。成綱が没した後も足利高基との関係は良好だった。また、統一那須氏の後継者争いにも介入したりなど勢力拡大に積極的だった。

結城家との関係悪化

宇都宮家と結城家は代々良好な関係を築いていた(忠綱の叔母は結城政朝の正室)。しかし、宇都宮成綱が死去すると結城政朝との関係が悪化し、忠綱は結城家を排除するために密かに結城領を侵攻する計画を立てたといわれている。(関係悪化の主な原因は室町時代の頃の下野国旧結城領を巡って両者の間に確執があったといわれている。また、忠綱は結城政朝の器量を恐れていたという。)

大永の内訌

結城家との関係が悪化している中、宇都宮家内では宇都宮忠綱及び壬生氏、永山忠好らを中心とする忠綱派と芳賀氏、笠間氏、塩谷氏らを中心とする忠綱による家中支配の強化に不満を持った宇都宮家中の一部が忠綱と対立。
芳賀高経らは結城氏の結城政朝と内通し、忠綱と対立した宇都宮家中は、初代古河公方足利成氏の孫娘である上杉顕実の娘を母とする成綱の弟である芳賀興綱を擁立した。

宇都宮城からの追放(猿山合戦)

1523年8月、下総の結城政朝が宇都宮領に侵攻してきた。宇都宮忠綱は出陣し、宇都宮猿山で結城勢と対峙し、ここで戦うが敗北する。(猿山合戦)
忠綱は宇都宮城に撤退するが、宇都宮城は芳賀高経の策謀により、芳賀興綱、芳賀高経、芳賀高孝、塩谷孝綱、笠間氏らが占拠し、忠綱は入城できなかった。忠綱はやむを得ず、壬生綱房の居城である鹿沼城に身を寄せた。
この合戦で結城政朝は下野国の旧結城領を宇都宮氏から奪い取ることに成功している。一方宇都宮氏は一族の今泉盛高が討死した。

河原田合戦

猿山合戦と同年8月、宇都宮忠綱は1800-2500の兵で皆川領に侵攻。皆川宗成は700の兵で出陣し、両軍は下野国皆川領河原田((現・栃木県栃木市))で対峙。合戦は宇都宮勢の大勝で当主の皆川宗成、宗成の弟の平川成明を討ち取るなど皆川氏に壊滅的な被害を与えた。

しかしその後、小山氏、結城氏が1800の兵を率いて皆川氏の援軍として来て衝突。宇都宮勢は劣勢となり、退かざるを得なくなったため撤退している。

晩年

宇都宮城を奪取された後も、忠綱は宇都宮城へ帰城するために、積極的に軍事活動を行っていた。1523年から1524年にかけて、宇都宮領やその周辺で合戦が繰り返し起こっており、猿山合戦で宇都宮城を乗っ取られた宇都宮忠綱及び壬生氏らを中心とする忠綱派と、芳賀氏、笠間氏、塩谷氏らを中心とする反忠綱派で激しい争いがあった。
その証拠に『今宮祭祀禄』に1523年に祭礼の頭人である玉生右京助が勝山で討死している。勝山城を巡って興綱を擁立した家臣らと忠綱派による武力衝突があったことを示唆しており、また、翌年にも「乱ゆえ、御頭御座なく候」という記述があり、戦乱中だったことがわかる。

そして忠綱は1527年8月12日宇都宮城に帰還することなく没した。享年31。
また忠綱の死には壬生氏の壬生綱房が忠綱を見限り、興綱に内通して寝返った綱房の謀略によって暗殺されたとう推測もされている。

大永の内訌は戦国時代の宇都宮氏にとって大きな痛手となっており、成綱期で築いてきたものをすべて水の泡にしてしまった。大永の内訌や宇都宮尚綱の代に起こった天文の内訌が、戦国時代後期の宇都宮広綱や宇都宮国綱の代に悪い影響を与えてしまっている。