関東は下野国の戦国大名
関東八家の名族で下野の中心宇都宮に居城を構えた

宇都宮うつのみや


左三ツ巴

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家系図

年 表

家 紋

左三ツ巴

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出 自

宇都宮氏は、一族分派が非常に多く北は奥羽から南は九州まで広がっている。しかし宇都宮氏の出自については諸説あって正確な判断が難しいとされます。
一般的には関白藤原道兼の流れを汲む一族と言われているが、近年では、下野宇都宮地方の皇別氏族である下毛野氏又は中原氏の流れを汲むともいわれる。
三代当主・宇都宮朝綱は源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた人物として知られており、5当主・宇都宮頼綱は北条時政の女婿として鎌倉幕府で重用されていた。

概 要

室町時代後期、戦国時代に入る前の宇都宮家は特にこれといった実績は無かったが、「宇都宮氏の中興の祖」と呼ばれた17代当主・宇都宮成綱があらわれると、家督相続で混乱していた、小山氏を攻め勢力を拡大、また優れた外交力で近隣諸国と同盟を結び北関東での地位を確立した。

古河公方の争いが(永正の乱)勃発すると宇都宮家は成綱の娘婿である、足利高基を保護した。しかし、これに家臣の芳賀高勝が反発し、成綱と対立し「宇都宮錯乱」 が勃発する。
「宇都宮錯乱」を鎮圧すると、「永正の乱」が激化し、足利政氏派の佐竹氏と岩城氏と下那須氏が2万騎以上の連合軍を率いて下野国へ攻め込んで来て竹林の戦いが勃発。宇都宮家はこの戦いに勝利し、足利高基の古河公方就任が確定した。これにより宇都宮氏の勢力は安定化し、全盛期を迎えた。

忠綱の時代になると。宇都宮氏家中で「大永の内訌」が勃発。忠綱と重臣・芳賀高経家が対立していまします。これにより宇都宮氏当主の権威は大きく失墜し、大きく弱体化することとなり、19代・興綱、20代・俊綱の頃は家臣団の傀儡となっていた。
21代広綱の時代になると宇都宮家の宿老・壬生家に宇都宮城を乗っ取られてしまします。このピンチを重臣・芳賀高定が救い、北条氏康や佐竹義昭らの協力を得て宇都宮城を奪還することに成功している。
その後は上杉家や佐竹家らと共に勢力を急激に拡大していた。北条家と対立した。また、広綱は、佐竹義昭の娘・南呂院を娶り、佐竹氏の与力大名となっていった。

豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣し、秀吉から下野18万石の所領を得た。また朝鮮出兵にも参陣し、帰還後は豊臣姓を賜り従五位下に任じられた。
しかし、太閤検地の為に派遣された浅野長政に石高不正を訴えられたことや、浅野長政の次男・長重と宇都宮家の養子話のこじれ等の理由で1597年、突然改易され備前国配流となり、22代・500年に亘って繁栄した関東の名門・宇都宮氏は歴史の表舞台から去ることとなった。

後に子孫は、水戸藩・徳川頼房に仕え、子の宇都宮隆綱は家老に取り立てられた。以降、子孫は水戸藩士として江戸時代を過ごし、明治維新を迎えた。
傍系として、常陸国守護小田氏や、三河国の出身で江戸時代には徳川家譜代大名として小田原を治めた大久保氏が祖と仰ぐ武茂氏がいる。

武 将 (名前クリックで詳細)

宇都宮正綱
(1447-1477)

宇都宮家16代当主。室町時代から続く度重なる内乱で低落した宇都宮家を建て直した大名。「宇都宮氏の中興の祖」と呼ばれる。

宇都宮成綱
(1468-1516)

宇都宮家17代当主。宇都宮家を北関東最大の勢力にまで成長させ、宇都宮氏の最盛期を築き上げた。「宇都宮家中興の祖」。

宇都宮忠綱
(1497-1527)

宇都宮家18代当主。宇都宮成綱の嫡男。家中を掌握しようとしたが反発にあい宇都宮城を追放される。

宇都宮興綱
(1476-1536)

宇都宮家19代当主。室町時代から続く度重なる内乱で低落した宇都宮家を建て直した大名。「宇都宮氏の中興の祖」と呼ばれる。

宇都宮尚綱
(1513-1549)

宇都宮家20代当主。芳賀高経から宇都宮家を守り家中を掌握するが、那須家との戦いで戦死する。

芳賀高武
(1526-1595)

宇都宮家臣。宇都宮広綱の三男。芳賀高継の跡を継ぐ。兄・国綱の片腕として活躍した。主家改易後は、慶長の役への参陣や石田三成の配下になる。

多功長朝
(1485-1558)

多功城主。1558年の上杉・小山・結城連合軍との戦いでは先鋒を破り連合郡を後退させた。

多功房朝
(1503-1589)

多功城主。北条軍との戦いで活躍する

多功秀朝
(1526-1595)

多功房朝の嫡男、体が弱かったため弟に家督を譲る