ポイント
- 宇都宮家16代当主
- 武茂家の当主でもある
- 宇都宮家中の原型を作る
- 享徳の乱時の当主
誕生・死没
- 誕生:1447年
- 死没:1477年
- 享年:31歳
官職・役職
- 官位: 従四位下 下野守
下野守護
右馬頭
親 族
略 歴
1447年… | 宇都宮等綱の子として誕生(芳賀成高の説も有り) |
1460年… | 父・宇都宮等綱が死去、宇都宮家を兄・明綱、武茂家を正綱が継ぐ | 1463年… | 兄・明綱が死去したため宇都宮家の家督を継ぐ |
1466年… | 家臣の芳賀高経が小田氏に通じたため捕縛し家中を掌握する |
1470頃… | 敵対関係であった「塩谷家」に三男・孝綱を継がせ臣従させる |
1470頃… | 享徳の乱で奮闘する |
1477年… | 宇都宮社社殿の式年遷宮の準備 長尾景春の救援に向かったが、上野国の川曲の戦いで陣没した |
出 生
正綱の出生には2説ある。
まず、1説が宇都宮正綱は等綱の実子とする説
もう1説が芳賀成高の子(宇都宮持綱の外孫)で宇都宮氏に養子縁組した説(『下野国誌』所収「芳賀系図」など)。
前者の方が信憑性が高い理由については、宇都宮等綱は芳賀成高ら重臣との対立の末に亡命先の奥州白河で没した経緯からして、等綱が自分を宇都宮から追放した成高の子と養子縁組をすることも、反対に成高が自分の子を自分が擁した明綱の対抗馬にする恐れのある養子縁組をすることも、いずれも考えにくからだ。
家督相続
まず、正綱は1460年に父。等綱が死去したため、宇都宮家の家督を兄・宇都宮明綱が、武茂家の家督をついでいる。(等綱は宇都宮家と家茂の当主であった)
その後、兄・宇都宮明綱が21歳の若さで死去すると、明綱に世継ぎが居なかったため、家督を正綱が継いだ。
宇都宮家を大名化へ
宇都宮家の家督を継いだ正綱は、塩谷氏、武茂氏といった主要な宇都宮一族を臣従化にとりかかった。
武茂氏は正綱自身が継いでいたが、後に嫡男の兼綱に継がせ塩谷氏には四男・孝綱を養子にだし臣従化に成功した
正綱は、臣従のあかしとして宇都宮氏惣領の通字である「綱」の一字を実名に与えていること。
また、宇都宮一族の壬生氏も壬生胤業の子に綱の一字を与え壬生綱重と名乗らせた。
享徳の乱と死没
正綱は小山持政に従い、成氏方について転戦していた。しかし、1470年頃になると成氏方は押されつつあり、厳しい状況になっていた。その際に重臣芳賀高益の献策により宇都宮氏は一時的に上杉方に寝返っている。
1476年上杉方の長尾景春が反乱を起こすと、1477年、正綱は成氏に従い長尾景春の救援に向かったが、上野国の川曲の戦いで陣没した。更に従軍していた宇都宮一族の横田綱親・保業・清業父子、今泉盛泰も討死し、紀党の棟梁益子唯正・延正父子も討死する等甚大な被害を受けた。享年31。
なお同年、正綱は翌年に行われる予定の宇都宮社社殿の式年遷宮に向けて日光山と宇都宮社の関係を説き描いた『日光山縁起』絵巻の転写などの準備をしていた頃の出来事であった。
宇都宮社社殿の式年遷宮は、翌年(1478年)に宇都宮氏17代当主となった成綱により無事行われた。