ポイント
- 宇都宮家20代当主
- 家中の内乱を掌握する
- 喜連川五月女坂の戦いで戦死する
誕生・死没
- 誕生:1513年
- 死没:1549年
- 享年:36歳
官職・役職
- 官位: 従四位下 下野守
左衛門尉
右馬頭
親 族
- 父 : 宇都宮成綱(新説)、興綱(定説)
- 母 : 小田成治娘
- 正室: 結城政朝娘
- 子 : 宇都宮広綱
略 歴
1513年… | 宇都宮成綱又は宇都宮興綱の子として誕生 | 天文初… | 宇都宮家の家督を継ぐ |
1539年… | 家臣の芳賀高経が小田氏に通じたため捕縛し家中を掌握する |
1549年… | 那須家との戦い「喜連川五月女坂の戦」で戦死する。 |
家督相続
初めは、僧となるために宇都宮氏ゆかりの慈心院(宇都二荒山神社の神宮寺)に入っていたが、天文年間初めに宇都宮興綱が芳賀高経によって幽閉された後に壬生綱房に擁され、僧侶を離れて宇都宮家の家督を継いで20代当主となる。
家中の掌握
1539年、先代・宇都宮興綱を自害に追い込んだ芳賀高経が皆川家(結城系)と通じて反旗を翻した。尚綱は宿老・壬生綱房と協力して芳賀高経を討ちその子・芳賀高照を白河に追放して、芳賀高定(益子勝宗の三男)を送り込み芳賀を継がせ家中を掌握した。
益子家は芳賀と並ぶ宇都宮家の重臣であり宇都宮氏の武力の大きな柱であった。
喜連川五月女坂の戦い
白河に追放された芳賀高経の子・芳賀高照は那須家に匿わられた、これにより、宇都宮攻撃の大義名分ができた那須家は宇都宮領に侵攻する「喜連川五月女坂の戦い」であう。
尚綱はこの戦いで那須軍の奇襲を受けて動揺する自軍を統制しようと前線に出たところを那須氏家臣鮎ヶ瀬実光に射抜かれて絶命した。
その後の宇都宮家
後継者の宇都宮広綱は5歳と幼く、壬生綱房に宇都宮城を奪われ、綱房や芳賀高照・塩谷義孝ら重臣団が宇都宮氏の実権を掌握する。広綱は芳賀高定に伴われ真岡城に逃亡し、宇都宮氏は一時宇都宮城を失った形となった。