筒井家と大和の覇権をかけて争った大和国人
越智 家栄
ポイント
- 大和国人・越智家当主
- 大和一向一揆を起こした
- 大和の覇権をかけて筒井家と争う
基本情報
| 誕 生 | 1432年 |
| 没 年 | 1500年(69歳)(病死) |
| 幼 名 | 春童丸 |
| 氏 族 | 越智氏 |
| 官 位 | 弾正忠、伊賀守、修理大夫、刑部少輔 |
| 主 君 | 畠山義就→義豊 |
| 家族構成 | |
| 父 | 越智維通 |
| 母 | 不 明 |
| 子 | 家令、古市澄胤の室 |
略 歴
| 1432年 | 1歳 | 越智維通の子として誕生 |
| 1439年 | 8歳 | 父・維通が死去 楢原氏が家督を継ぐ |
| 1441年 | 10歳 | 楢原氏を破り家督を継ぐ 嘉吉の乱が勃発 筒井家と大和をかけて争う |
| 1443年 | 12歳 | 大乗院門跡経覚と結び筒井光宣を破り大和の支配権を握る |
| 1445年 | 14歳 | 筒井家の反撃を開始 |
| 1453年 | 22歳 | 筒井家と和睦 |
| 1455年 | 24歳 | 畠山義就と畠山政長の争いが勃発 義就側に付き政長側についた筒井家と争う |
| 1466年 | 35歳 | 大和で筒井家に勝利 筒井家と和睦 |
| 1467年 | 36歳 | 応仁の乱が勃発 再び筒井家と争う |
| 1477年 | 46歳 | 筒井家らを追放し大和を占拠 |
| 1490年 | 59歳 | 主君・畠山義就が死去 |
| 1497年 | 66歳 | 畠山尚順と筒井、十市家が大和で挙兵しこれに敗れ吉野に没落 |
| 1500年 | 69歳 | 死去 |
筒井家との争い
1432年、家栄は大和の国人・越智氏の越智維通(家経?)の子として誕生した。
1439年、父・維通が大和永享の乱の首謀者として室町幕府に討たれると、幼い家栄に変わって楢原氏(詳細不明)が越智氏を継いだ。しかし、1441年に河内国守護・畠山持国の支援を受けた家栄が楢原氏を破って越智家家の当主となった。また、同年には大和国人・筒井氏内で、摂津国河上五ヶ関務代官職を巡って筒井順弘と弟の成身院光宣、筒井順永の内乱が勃発すると家栄は順弘を援助して、順弘を筒井家の当主に就けたが、1443年に順弘が殺害されると河上五ヶ関の直接支配を狙った
大乗院門跡経覚、古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らと組んで光宣を筒井城に封じ込め、管領となった畠山持国の後援もあって大和は経覚派の支配下になった。
ところが、1445年に光宣が反撃、経覚派が築いた鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、以降一進一退の攻防が続いたが、1454年に両派は和解した。また、1458年には赤松氏遺臣の後南朝襲撃及び神璽の奪還に協力している(長禄の変)。
大和制圧
1455年、河内守護・畠山持国が死亡して子の義就と甥の政久、政長兄弟のお家騒動が発生、大和国人も2分された。光宣、順永兄弟は政長方に、家栄は義就につき、1460年に義就が没落して嶽山城に籠城した時は攻め手として他の大和国人と共に参戦したが、1466年に義就が上洛の構えを見せると家栄も呼応して大和で筒井党に勝利、十市遠清の仲介で光宣と和睦したが、応仁の乱が勃発すると義就派として古市氏と組んで政長派の筒井氏永、十市氏、箸尾氏と戦った。
1477年、義就が河内へ侵攻し、政長の領国河内を制圧すると家栄ら義就派も大和を占拠、筒井順尊(順永の長男)、十市遠清・遠相父子、箸尾為国らを追放した。1490年、主君・義就が死去すると、家栄は後を継いだ子の義豊にも引き続き仕えた。義豊は1493年に政長と10代将軍・足利義稙に攻め込まれるが、密かに連携していた細川政元が明応の政変を起こして政長は敗死、義稙を捕縛して新たに従兄の義澄を擁立したので基家は窮地を脱した。それに伴い、家栄と澄胤が上洛している。
晩年
1497年、政長の遺児・畠山尚順が筒井氏と共に大和で挙兵すると十市遠治に敗れて家栄は子の家令と共に吉野に没落した。しかし、翌年になると、家栄は高取城に帰り、一応勢力を挽回している。それから2年後に家栄は死去した。
人物・功績
越智観世
世阿弥の孫・観世十郎大夫を保護し、越智観世を始めたという。