6ヵ国の守護を務めた三管領家の一家。お家騒動が「応仁の乱」の一因となった

畠 山はたけやま

足利二つ引

足利二つ引

家系図

年 表

  

 1205年

畠山重忠が北条時政に敗れ戦死(平姓平氏の滅亡)
足利義純が畠山重忠の未亡人と婚姻し畠山の所領と姓を継ぐ(足利一門と河内源氏の流れ汲む畠山氏の誕生)

 1336年

室町幕府が創立
越中・河内・紀伊の守護となる

 1351年

畠山家宗家である畠山高国・国氏父子が吉良貞家に敗れ奥州二本松に移る(奥州畠山)
畠山国清の(金吾家)が惣領格となる

1353年

畠山国清が関東管領、伊豆国守護となる

 1361年

国清が足利基氏と対立し失脚

 1366年

義深が「貞治の変」で失脚した斯波高経の分国であった越前国守護に任命され畠山家が復権する

 1391年

基国が明徳の乱で功績をあげ能登守護となる

 1398年

基国が管領に命じられる(三管領として名を連ねる)
畠山持国が誕生

 1433年

畠山満家が死去
持国が家督を継ぐ

 1437年

大和永享の乱で大和へ出兵(大和宇智郡守護に任命)
畠山義就が誕生

 1441年

持国が結城合戦への出陣を拒み家督を失脚
家督を持永が継ぐ
足利義教が暗殺される(嘉吉の変)
持国が持永を討ち家督を奪還する
政久が誕生(持富の嫡子)

 1442年

畠山政長が誕生

 1448年

持国が後継者を持冨(持国の弟)から義就(持国の庶子)に変更する(畠山家内で持冨(政久・政長派VS義就の家督争いが勃発))

 1454年

持国が持豊派の家臣達を追放

 1455年

持国が死去
義就が家督を継ぐ

 1457年

義就、将軍・義政の怒りに触れ所領を没収

 1459年

政久が死去し、義就と政長の家督争いとなる

 1460年

義就が失脚し政長が畠山当主となる
義就が朝敵となる(獄山城の戦い)

 1463年

政長が義就の籠城する獄山城を攻略
義就が紀伊、吉野(奈良県南部)に逃れる

 1464年

政長が管領となる

 1465年

義就が挙兵

 1467年

義就が上洛し政長を管領職から辞任させた
義就軍(西軍)と政長軍(東軍)が衝突(御霊合戦)
応仁の乱が勃発

 1469年

義就の子として義豊が誕生

 1473年

山名宗全と細川勝元が死去

 1476年

政長の嫡子として畠山尚順が誕生

 1477年

義就が政長討伐のため河内へ侵攻(若江城の戦い)
義就が河内と大和の事実上の支配者となる
東西両軍の講和が成立(応仁の乱の終結)

 1482年

政長・細川政元軍が義就追討に出陣
細川政元と義就が和睦

 1483年

義就が山城南部に侵攻(犬田城の戦い)

 1485年

山城国一揆が勃発し畠山両軍が山城から撤退

 1486年

政長から細川政元に管領が交代

 1487年

義豊の子として義英が誕生

 1489年

9代将軍・足利義尚が死去し足利義稙が10代将軍に就任する

 1491年

義就死去
義豊が家督を継ぐ

 1493年

畠山義豊討伐の軍が高屋城を攻撃
細川政元の調略により、義稙が失脚、足利義澄が将軍となり政長が朝敵となり義豊が赦免される(明応の政変)
討伐軍に攻められた政長が自害する

 1497年

尚順が挙兵し義豊の高屋城を落とし河内・大和を奪還する
が山城に逃亡

 1499年

尚順が義豊を討取る(義豊死没)
細川政元が大和を支配する

 1507年

細川政元が暗殺される(永正の錯乱)

 1508年

尚順が出家し「卜山」と名乗る

 1509年

尚順の子として稙長が誕生

 1511年

船岡山合戦で義稙方が勝利し将軍となる
尚順が正式に守護職に任命される

 1517年

尚順が隠居し稙長に家督を譲る

 1518年

高国と将軍・義稙が対立

 1521年

尚順と義英が同盟を結ぶ

 1522年

尚順が死去

 1523年

義英が死去し、義堯が家督を継ぐ

 1528年

稙長の高屋城が義堯に奪われる

 1532年

享禄・天文の乱
木沢長政に敗れ義堯が自害する(飯盛城の戦い)
木沢長政が擁立した畠山在氏が継いだ

 1545年

稙長が死去

 1549年

在氏が三好長慶・遊佐長教らの軍勢に敗れ没落する

出 自

畠山の由来

畠山氏には平安~鎌倉期にかけての「平姓畠山」と鎌倉から明治時代まで続く「源姓畠山」との2期ある。 まず畠山氏の由来だが、板東八平氏の一族であった秩父氏が武蔵国男衾郡畠山郷に所領を得た事に由来する。

平氏畠山氏の滅亡

治承・寿永の乱において畠山家当主・畠山重忠は始めは平氏側であったが後に源頼朝に従い各地の合戦で活躍した。
しかし、その後、執権・北条時政と対立、戦を起こすがこれに敗れ戦死してしまう。これによって平氏畠山氏は滅亡してしまう。

源氏畠山氏の発足

北条時政に敗れ滅亡した平氏畠山氏だったが、重忠の未亡人(時政の妹)を哀れんだ北条政子・義時姉弟が 足利義兼(足利尊氏の大祖父)の庶長子・足利義純に未亡人を嫁がせ重忠の旧領と畠山の姓をなどを義純に相続させ、清和源氏である・足利家の一門として「畠山家」が存続することとなった。

室町時代

越中・河内・紀伊の守護の任命と宗家の衰退

足利尊氏が室町幕府を発足すると、畠山家はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の守護に任じられた。
足利家の内紛である「観応の擾乱」では宗家である高国・国氏父子が吉良家に敗れその子、国氏は二本松に移つり奥州畠山家として存続した。これが戦国時代に陸奥国安達郡を収めた 二本松家家である。しかし、二本松家にはもはや宗家としての力はなかった。

金吾家の大頭

畠山家宗家が衰退するなかで、畠山国清の家系(金吾家)が畠山家の惣領格となった。
一度あ鎌倉公方・足利基氏と対立し失脚するが、国清の弟の畠山義深がのちに守護に任命され畠山家を再興、義深の子・畠山基国が明徳の乱で功績を挙げ、能登の守護を任されるなど守護大名として力をつけていった。

三管領

1398年には管領に任じられ、同じ足利一門の斯波武衛家や細川京兆家とともに三管領家として名を連ねる家柄となった。
室町幕府が足利義教になると畠山持国は義教の干渉に苦しめられるが細川家や山名家と拮抗する勢力を維持した。

畠山家一族

奥州畠山氏(二本松家)

畠山氏の本来の嫡流(本筋)。
畠山高国・国氏が足利直義方の吉良貞家に敗れ自害し(観応の擾乱)、国氏の子二本松国詮は二本松に移ったのが始まり、戦国時代には、一国人にまで衰退した。

畠山金吾家

畠山政長(畠山尾州家)や畠山義堯(畠山総州家)は管領に就任したが、戦国末期に両家でそれぞれ、木沢長政(畠山総州家)や遊佐長教(畠山尾州家)による下克上が起こったほか、越中国は守護代の神保氏に奪われ、河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされ、畠山氏の力は衰退していった。

戦国時代後

戦国時代が終焉し江戸時代になると残った畠山家は尾州畠山家と能登畠山家だけだった。
明治維新後、尾州畠山家の当主畠山基永は足利に復姓して士族に編入され、能登畠山家の方は畠山姓のまま士族となった

主な支配城

  • 七尾城【石川県】
  • 広城【和歌山県】

所 属武 将 (名前クリックで詳細)

畠山持国
(1398-1455年)

畠山家当主。畠山満家の長男。将軍・足利義教によって失脚するが、後に家督を奪還し勢力拡大を目指すが晩年に後継者問題を発生させ畠山氏衰退の原因を作った。

畠山持永
(?-1441年)

畠山満家の次男。兄・持国が将軍・義教によって家督を失脚されたため、代わりに畠山家の家督を継ぐが、義教が暗殺されると、赦免された持国によって討たれる。

畠山持冨
(???-1452)

畠山満家の三男。長兄・持国に嫡子がいなかったため、畠山家の後継者となるが、持国が庶子・義就を後継者に変更したため、持冨の子が持国親子と家督争いを起こた。