神官・大神氏の一族から戦国大名となった大和守護

筒井家つつい

梅鉢

梅鉢

             
本姓大神朝臣?
家祖
出身地大和国添下郡筒井(現:奈良県添下郡筒井町)
主な支配国大和
主な本拠地筒井城
主な当主筒井順永、順尊、順昭、順慶
支流無し

概 要

大和国人衆の一人として興福寺に属しながら同国の越智氏との争い経て大和国内における一台勢力に発展し大和の戦国大名として地位を確立した。
しかし、松永久秀が大和に侵攻するとこれに敗れ大和から離れると、織田信長の家臣となり、大和守護に任じられた。その後は明智光秀の与力大名として活躍した。本能寺の変後は羽柴秀吉の家臣として仕えたが不当な扱いから関ヶ原の戦いでは東軍に与したため所領を安堵され、伊賀上野藩を立藩した。しかし、幕命により改易され伊賀上野藩20万石は廃藩となり、大坂夏の陣で筒井家当主・定慶が戦死したため、大名としての筒井氏は滅亡した。

家系図

年 表

 1385年

筒井順覚の名前が初めて史料で確認

 1455年

畠山義就に攻められ、領地を没収される

 1459年

大和国に帰国

 1467年

応仁の乱が勃発
畠山政長に協力し畠山義就派と戦う

 1476年

義就らにやぶれ大和から追放される

 1497年

畠山尚順に呼応し筒井順賢が大和で挙兵

 1521年

越智氏と和睦

 1532年

大和で一向一揆が勃発(天文の錯乱)

 1542年

河内守護・畠山稙長に属し大和を支配していた木沢長政を討つ

 1546年

細川晴元と細川氏綱が争う
筒井家は氏綱に従う
筒井順昭が越智氏の貝吹山城を攻め落とし筒井氏の最盛期を築く

 1559年

三好家家臣・松永久秀が大和に侵攻しこれと戦う

 1565年

三好三人衆と松永久通の軍勢が将軍足利義輝を殺害する
久秀によって筒井城が陥落(筒井城の戦い)

 1566年

三好三人衆と結託し筒井城を奪還する

 1567年

東大寺大仏殿の戦いで久秀と戦う

 1568年

信長が足利義昭を擁立し上洛
松永久秀が信長の陪臣となり大和の支配権を認められる
松永・織田軍が大和へ侵攻する

 1571年

足利義昭と和解する
辰市城の戦いで松永久秀を破り筒井城を奪還する
信長に臣従し久秀と和解

 1572年

久秀が信長と手切れする

 1575年

順慶が信長の娘もしくは妹を正室に迎える

 1578年

大和を平定
播磨征伐に参戦

 1579年

有岡城の戦いに参戦

 1582年

本能寺の変が勃発
一度は光秀に加担するがその後羽柴秀吉に恭順し所領を安堵される

家 紋

梅鉢

梅鉢

出 自

筒井氏の出自については諸説あり大神神社の神官・大神氏の一族というのが通説とされている。
筒井氏は大和国添下郡筒井の土豪として大和に勢力を持ち、鎌倉時代以降、大和守護は興福寺が務めており、筒井氏もその衆徒としてぞくしてい。

戦国時代

大和国内での地位確立

戦国時代に入ると興福寺の勢力が衰退し、大和四家と言われる筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏の勢力が台頭してくる。そのような情勢のなか応仁の乱が勃発すると、大和国は河内守護大名・畠山氏の抗争に巻き込まれて、大混乱に陥り。筒井順永は畠山政長に協力して畠山義就派の越智家栄らと戦ったが、息子の順尊は義就に敗れ衰退した。
そのような中で筒井氏の基礎を築き上げた筒井順興が当主となると、順興は大和国人衆の一人として興福寺に属しながら越智氏を滅ぼして勢力を拡大し、筒井氏を大和の戦国大名として地位を確立させた。
その後、順興が死去し、筒井順昭が後を継ぐと。順昭は、信貴山城を本拠とする木沢長政と連携して越智氏を圧迫。長政が没落すると、その勢力を大和より駆逐し、大和を統一。さらに、敵対関係にあった義理の兄十市遠忠と和解し、河内にもその勢力を伸ばし筒井氏の全盛期を築き上げた。しかし、順昭はわずか28歳で死去し、家督は嫡男で2歳の筒井順慶が後を継ぐこととなった。

松永久秀との戦い

  筒井家の最盛期を築いた順昭が死去し、その嫡男・順慶は2歳で当主となり、叔父の筒井順政が後見人を務めた。しかし順慶が幼少であるのを見て、三好長慶の家臣・松永久秀が大和への侵攻を開始した。
  順慶は幼少で、しかも順政も1564年に死去という悪条件が重なった筒井氏には軍の統率が取れず、筒井城を久秀に奪われ、順慶は大和から追放された。(筒井城の戦い)。
  その後も順慶は、久秀が三好三人衆と対立すると、三人衆に味方し大和奪回を目指したが、久秀の前にたびたび敗れた。

信長の家臣

久秀からの大和奪還を目指した順慶は、足利義昭を擁立し上洛した織田信長の家臣となり、同じく信長の家臣となっていた松永久秀と和睦し久秀から大和守護に任じられた。
その後は明智光秀の与力大名として久秀討伐(信貴山城の戦い)、一向一揆討伐などで活躍した。しかし、本能寺の変が起きて光秀が信長を殺すと、その与力という関係から協調行動を勧誘されるが、順慶は拒否。このため光秀の滅亡後も所領は安堵された。この時の筒井軍の行動が後世に脚色され、日和見的態度を指す「洞ヶ峠」の由来となった。

伊賀上野藩

順慶が死去し、家督を継いだ定次は羽柴秀吉の家臣として仕えた。しかし、秀吉は大和には信用できる身内を置いておきたいという考えから、定次を伊賀上野へ減封し、このため、筒井氏は家臣の多くを改易し、伊賀の土豪をも潰していかざるを得なかったといわれている。
この理不尽な仕打ちから、関ケ原の戦いが起きると定次は東軍に与したため所領を安堵され、伊賀上野藩を立藩した。

筒井家滅亡

1608年、筒井家は突然の幕命により改易され伊賀上野藩20万石は廃藩となった。定次自身の身柄は鳥居忠政預かりとされた。改易の理由は、定次が酒色に溺れて政務を顧みなかったこと、キリシタンであったことなどのほかに、筒井氏のような外様大名を畿内に置いておくのは危険と考えた幕府の有力外様大名取り潰し政策の一環とも伝えられている(筒井騒動)。

そして1615年、大阪冬の陣がおきると定次は徳川方の武将であったが大坂冬の陣で城方に内通したという責めによって、幕命により息子の筒井順定と共に自害を命じられた。その後、従弟の筒井定慶が大和郡山1万石を与えられたが、大坂夏の陣で定慶が戦死したため、大名としての筒井氏は滅亡した。

筒井家の子孫は徳川家康に仕え旗本となり、1千石を与えられ家名は幕末まで続いた。

筒井一族(名前クリックで詳細)

筒井順永
(1419-1476)

筒井順覚の子で筒井家当主。畠山義就との抗争を繰り広げた

筒井順尊
(1451-1489)

筒井順永の子で筒井家当主。応仁の乱では東軍に属し西軍の大内政弘と戦うなど東軍方の将として活躍するが畠山義就に敗れ大和から追放される

筒井順賢
(????-????)

筒井順尊の子で筒井家当主。大和から細川軍を追い出し、古市氏や越智氏と大和の覇権をかけて争う。

筒井順興
(1484-1535)

筒井順尊の子で筒井家当主。兄・順賢の死後、筒井家の家督を継ぐと大和一向一揆の鎮圧に務め衰退した筒井家を再興した。

筒井順昭
(1523-1550)

筒井順興の子で筒井家当主。宿敵であった越智家を破るなど筒井家の勢力を拡大し筒井家の最盛期を築いた。

筒井順慶
(1549-1584)

筒井順昭の子で筒井家当主。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して大和一国を拝領する

筒井定次
(1562-1615)

筒井順国の子。順慶の甥。順慶の養子となり筒井家の家督を継ぐ。伊賀上野藩主となるが素行不良のため改易された。大坂冬の陣の際、大坂方に内通した罪で自害させられた。

筒井定次
(????-????)

筒井順興の三男。慈明寺家の養子に入り家督を継ぐ。兄・順昭の娘を娶り、順昭死去の際は、一族とともに影武者・黙阿弥を立てて順昭の死を秘したという。

家 臣(名前クリックで詳細)