細川家に対抗するため大和一向一揆を結成する

越智 家令おち いえのり

ポイント

  • 大和国人・越智家当主
  • 大和一向一揆を起こし細川家に対抗

概 要

大和の国人・越智家当主。越智家栄の子。長年の宿敵であった筒井家と和睦し、大和一向一揆を形成し細川政元の大和侵攻に抵抗した。

基本情報

誕 生????年
没 年1507年(?歳)(病死)
幼 名小三郎
氏 族越智氏
官 位弾正忠、刑部少輔
主 君畠山義就義豊
家族構成
越智家栄
兄 弟家令古市澄胤の室
家教筒井順賢の正室、筒井順興の正室

略 歴

????年 ?歳  越智家栄の子として誕生
1497年 ?歳  敵対する畠山尚順・筒井順賢が挙兵
1500年 ?歳  父・家栄が死去し家督を継ぐ
1505年 ?歳  筒井家と和睦
1506年 ?歳  赤沢朝経が大和に侵攻
国人一揆を結成して朝経に対抗
1507年 ?歳  死去

筒井家との戦い

家令の出生年については不明だが大和国の国人・越智氏の越智家栄の子として誕生した。
元服すると父と行動を共にして大和に勢威を及ぼしたが、1497年に敵対する畠山尚順が主君・畠山義豊を攻めて、それに呼応して筒井順賢・十市遠治らが大和に侵攻、越智父子は敗れて古市澄胤と共に没落したが、翌年大和に復帰した。

大和一向一揆を結成

1500年に父・家栄が死没したため、家令が越智家の家督そ相続した。1505年には長年の宿敵であった筒井順賢ら筒井党と和睦、娘を順賢に嫁がせた。
しかし、1506年に赤沢朝経が大和に攻め込んだので大和国人は国人一揆を結成して対抗したが、家令は1507年に死去したと見られている。