畠山義就に敗れ大和から追放される

筒井 順尊つつい じゅんそん

ポイント

  • 筒井順永の子で筒井家当主
  • 応仁の乱では東軍に属す
  • 畠山義就に敗れ大和から追放

概 要

大和の豪族・筒井家の当主・筒井順永の子。応仁の乱では東軍の主力として西軍方の大内義弘と戦う。応仁の乱終結後は畠山義就に敗れ大和から追放される。

基本情報

誕 生1451年
没 年1489年(酒毒)
別 名栄藤、舜覚坊
氏 族筒井氏
家族構成
筒井順永
不 明
兄弟 順尊、成身院順盛、安楽坊順憲、箸尾為国の正室、遊佐長直の正室
順賢順興

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略 歴

1451年 1歳  筒井順栄の子として誕生
1467年 17歳  応仁の乱が勃発
東軍に属し主力として活躍
1470年 20歳  出家する
1475年 25歳  畠山義就に敗れ大和から追放
1476年 26歳  父・順栄が没落し家督を継ぐ
1489年 39歳  大和を奪還出来ずに京都にて死去

応仁の乱

1451年、筒井順永の長男として誕生。
当時の大和は畠山義就と畠山政長が対立した影響で国人も2派に分かれて抗争していた。順尊は父・順永とともにこの畠山家の抗争に介入し政長を支持した。
その後、1467年に応仁の乱が勃発すると。筒井氏は政長派の東軍に属し主力として活躍し大和国内で越智氏・古市氏などと激しく抗争した。

畠山義就との戦い

1470年、順尊は出家し正式に僧侶としての地位を得た。1476年、父・順栄が死去すると、その翌年に筒井氏の宿敵であった大和の豪族・越智・古市氏らと結んだ畠山義就(西軍側)が河内に侵攻し、政長派を次々と倒すと越智家栄らも勢いづいて順尊・箸尾為国らを大和から追放、河内と大和は義就の手に入った※正式な守護は政長と興福寺。
義就に敗れた、順尊ら政長派は流浪の身となった。後に十市遠清・遠相父子も大和から脱出した。

最期

浪人の身となった順尊は大和で度々ゲリラを仕掛けるがその度に敗北、復帰を果たせぬまま1489年、京都で酒毒により死去。享年39。
順尊の死後、嫡子・順賢が後を継ぎましたが、未成年だったため叔父・成身院順盛が後見役をつとめまた。