丹波国を領し足利義政の御供衆を務めた野州細川家3代当主

細川 教春ほそかわ のりはる

概 要

管領家細川家の分家・野州細川3代目家当主。
丹波国を領し足利義政の御供衆を務めた。

  ポイント

  • 管領細川家の分家である野州細川家の当主で丹波国を領した
  • 足利義政の御供衆を務めた
  • 応仁の乱では東軍に属した

誕生・死没

  • 誕生:???年
  • 死没:???年
  • 享年:?歳
>

名 前

  • 長川寺無極常永(戒名)

官 位

  • 下野守、民部少輔

親 族

細川持春
兄弟 教春政国、賢春
勝之政春、春倶、兼子(二条政嗣(公卿)正室)
女子(日野政資(公家)室)、女子

略 歴

1441年 ?歳   嘉吉の乱によって足利義教が庵さるされる
1466年 ?歳   父・持春が死去し家督を継承
1467年 ?歳   応仁の乱が勃発
1473年 ?歳   細川勝元が死去

生 涯

教春は管領家・京兆細川家の分家である野州細川家の出身として誕生した。
出生年は不明だが父は足利義政が暗殺された時に片腕を失った野州細川家2代目当主・細川持春。

教春に子・細川勝之が誕生すると、勝之は細川宗家・京兆家当主の細川勝元の後継者として養子入りした、この養子入りが応仁の乱の一因とも言われている。
応仁の乱が勃発すると、義教は細川宗家・京兆家当主の細川勝元の東軍に属し、丹波勢2千余人を率いて奮戦した。

応仁の乱が終結に向かうと細川と山名で講和の条件が出され、その中に勝之を廃嫡し、山名氏の血をひく細川政元を勝元の嫡子とする案が盛り込まれていた。
これに賛同する対山名派もいたが、勝之とその父である教春はこれに反対し、家中内で対立した。

その後、勝元が死去し家督は結局、政元が継ぎ教春の弟・政国が貢献を務めた。

ざんねんながら、教春の死亡年は不明だが、教春の死後は勝之に代わって嫡男となっていた教春の次男・政春が野州家の家督を継いだ。

細川教春が出演したドラマ

    無し

参考資料(引用元)