目 次
概 要
足利義満の子で義持の弟。
初めは天台宗に入り僧侶として活動した。しかし、甥の義量、兄の義持が相次いで死没したため還俗し将軍家の家督を継ぐ。
将軍となった義教は比叡山延暦寺に攻勢を仕掛け、永享の乱で足利持氏を敗死させるなどし、その手法は「万人恐怖」と称され人々を恐怖に陥れ地方を混乱させた。
最期は赤松氏に暗殺される。
ポイント
- 足利義満の子で室町幕府6代当主
- 恐怖政治を敷き「万人恐怖」と称された
- 赤松満祐により暗殺される
誕生・死没
- 誕生:1394年
- 死没:1441年
- 享年:48歳
- 墓所:十念寺
- 崇禅寺、安国寺(首塚)
名 前
- 春寅(幼名)
- 義円(法名・僧時代)
- 義宣→義教
- 普広院殿善山道恵禅定門(戒名)
あだ名
- 籤引き(くじ引き)将軍、籤将軍、還俗将軍、悪御所、万人恐怖
氏 族
官 位
- 従五位下、左馬頭、従四位下、参議、左近衛中将、従三位、権大納言、右近衛大将、従二位、右馬寮御監、従一位、内大臣、左大臣、淳和奨学両院別当、贈太政大臣
役 職
- 室町幕府:第6代征夷大将軍
親 族
父 | : | 足利義満 |
母 | : | 藤原慶子 |
正室 | : | 日野宗子 |
継室 | : | 正親町三条尹子 |
側室 | : | 日野重子、小宰相局(足利義教側室)、小弁殿、東御方、ほか | 兄弟 | : | 尊満、宝幢若公、義持、義嗣、義教、義昭、法尊、ほか |
子 | : | 義勝、政知、義政、義視、ほか |
猶子 | : | 教賢(一条兼良息)、義快(二条満基息)、政超(九条政忠息) |
略 歴
1394年 | 0歳 | 足利義満の子として誕生 |
1403年 | 9歳 | 青蓮院(天台宗の寺院)に入室 |
1408年 | 14歳 | 門跡となり「義円」となのる |
1419年 | 25歳 | 天台座主となり大僧正を務めた |
1425年 | 31歳 | 甥で五代将軍・足利義量が死去 将軍は義量の父で四代・義持が継ぐ |
1428年 | 34歳 | 義持が後継者の指名せず死去 くじ引きの結果「義教」が六代将軍に選ばれる 還俗し「義宣」と名乗る |
1429年 | 35歳 | 「義教」と改名し、征夷大将軍となる |
1433年 | 39歳 | 比叡山との抗争が勃発 |
1434年 | 40歳 | 比叡山焼き討ち |
1439年 | 45歳 | 義教が関東公方・足利持氏を攻撃(永享の乱) 義教が持氏一族を殺害> |
1440年 | 46歳 | 関東の結城氏朝が反乱を起すが義教によって鎮圧(結城合戦) 赤松満祐の弟・赤松義雅の所領を没収する |
1441年 | 47歳 | 異母弟・義昭をせめる 赤松氏により義教殺害 |
出生と家督相続まで
室町幕府3代目将軍・足利義満の四男(五男とも)として誕生する。
義教は1394年、室町幕府3代将軍・足利義満の子(四男又は五男)として誕生した。
幼名は「春寅」といった。
幼少期を僧侶として過ごす
室町将軍家として誕生した義教だったが、兄・義持が家督を継いだため、義教は「義円」と名乗り僧侶として青蓮院に入室することとなる。
僧侶として活動した義円(義教)は、足利将軍家の出身ということもあり、天台座主になるなど僧のなかでも地位の位についていた。
将軍就任
兄・義持の死によって義教がくじ引きで将軍となる
1425年、義教の甥で5代将軍・足利義量(義持の子)が死去した。
義量の死後は義持が引き続き政治を行っていたが、その義持も後継者を指名せずに死去したため、幕府の重臣達はくじ引きで将軍を行う事とした。
くじ引きの候補者は義持の弟である、大覚寺義昭、梶井義承、虎山永隆、義円(義教)であった。くじ引きの結果、選ばれたのは「義円(義教)」であった。
義教は何度か辞退したが、諸大名の強い要請を受けて将軍の就任に承諾し、名前を「義宣」と改めて還俗し将軍となった。
ちなみに「義宣」という名前は「世(よ)を忍(しのぶ)」という読みもでき不吉だったため、その後「義教」と改名している。
義教の政策
父・義満を見本とした政策
義教は幼少時から仏門に入っており、将軍家の家督継承者候補としても考えられていなかったため、政治の教育を受けていなかった。
そのため、父・義満の政策を手本とし義満時代の儀礼などの復興や、義持の代から中断していた勘合貿易を再開させた。
それと、管領の権限を抑制するため評定衆・引付に代わって、自らが主宰して参加者を指名する御前沙汰を協議機関とする政策などを行った。
また、軍事面では将軍直轄の奉公衆を再編、強化して独自の軍事力を強化しようとした。
幕府の重臣が次々に死去し、次第に義教の恐怖政治が始まる
義政政権の発足後しばらくは義持期の重臣達が義教を取り囲んでいたため、義教の意向が政治に反映されにくい状況であった。
そのため、義教は自分の意思を反映させるため「湯起請」(手を熱湯のなかにいれてその状態で真偽を判断する神判の一種)やくじ引きといった神判による裁断を行うこともあった。
しかし、政権の後半になると、山名時煕・畠山満家、三宝院満済、斯波義淳といった幕府の重臣が相次いで死没していった。なかでも義教に対して異議を唱えることができ、義教の政策を抑制できた満家の死は、
義教の独裁政治に大きなきっかけを与え、それが義教の暴走を招いた。
比叡山との抗争
調子にのった延暦寺を包囲する
1433年、延暦寺山徒が幕府の山門奉行・飯尾為種や、光聚院猷秀らに不正があったとして両者に責任を問う裁判(弾劾訴訟)を行った。
裁判の結果、延暦寺山徒が勝訴し為種・猷秀は義教によって流罪することで事件は収まった。
しかし、勝訴の勢いにのる延暦寺山徒は、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件を起こした。これに激怒した義教は、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲、延暦寺側は降伏し、一旦和睦が成立した。
延暦寺が鎌倉公方・足利持氏と通じて義教を呪詛しているとの噂が流れ義教が激怒する
1434年、延暦寺が鎌倉公方・足利持氏と通じて、義教を呪っているとの噂が流れた。
鎌倉公方・足利持氏は義持(義教の前の将軍)の後継者として幕府の将軍職を狙っていた人物で、義持の死後は自分が将軍に就任できると信じていた。そのため、くじ引きで将軍になった義教の事「還俗将軍」と呼び恨んでいた。
これを知った義教は、近江守護・六角満綱、京極持高に命じ、近江国内の延暦寺領を差し押さえさせ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。
延暦寺代表の山門使節4人を打ち首とする
怒りが収まらない義教は、比叡山に兵を派遣し比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけるなどの攻撃を行った。
これに対し延暦寺側は降伏を申し入れるが義教はこれ受け入れず、最終的には幕府の宿老達が赦免要請をし義教はようやく降伏を承諾した。
しかし、まだ怒りの収まらない義教は、出頭してきた延暦寺代表の山門使節4人を捕らえ首をはねた。
これに激昂した延暦寺の山徒は抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。また、義教はこのことについて噂する者を斬罪に処す触れを出した。
永享の乱
室町幕府と鎌倉公方で一触即発の状態となる
鎌倉公方・足利持氏は自身の代わりに将軍となった、義教を恨んでおり、比叡山の呪詛問題に始まり、嫡子・足利義久が誕生すると義教を無視し勝手に「義」の字をつけたりと、両者 の関係は冷めきり、いつ戦になってもおかしくない緊張状態が続いた。
幕府と鎌倉公方の間を取り持っていた関東管領・上杉憲実が身の危険を感じ上野に逃亡する
義教と持氏との間を取り持っていた、穏健派の関東管領・上杉憲実は何度も幕府に対して対抗姿勢を続ける持氏をなだめてきたが、持氏の嫡男・義久の名前の件で持氏との関係は悪化し、 ついには持氏が「憲実を暗殺する」という噂がでるほどであった。これに危機を抱いた憲実は鎌倉を出国し領国の上野国に逃れた。
持氏が憲実討伐の兵をあげるとこれを反逆行為とみなした義教が持氏討伐の兵を挙げる
勝手に鎌倉を出奔し上野国へ逃れた憲実に怒った持氏は、すぐに憲実討伐の兵を挙げる。
これを好機とみた、義教は憲実と結び関東や東北の諸大名に鎌倉公方・持氏包囲網を結成、さらに持氏討伐の勅令を奉じて朝敵に認定し大儀名分を得て関東討伐に至った。(永享の乱)
戦に勝った義教は持氏一族を殺害し関東に自己の勢力を広げる計画をする
永享の乱で勝ち目がないと悟った持氏は出家し義教に恭順の姿勢を示した降伏。義教は憲実の助命嘆願もあったが、持氏一族を殺害し永享の乱が終焉した。
その後、義教は関東に自己の勢力を広げていくため、実子を新しい鎌倉公方にしようと計画するが、上杉家の反対にあり挫折した。また、持氏の命を助けられなかった憲実は隠居することとなる。
トップを失った関東の政治は混乱していくこととなる。
結城合戦
足利持氏側の結城氏朝が持氏の遺児を擁立し反乱を起こす
永享の乱の後、持氏側の武将で鎌倉公方に恩のあった結城氏朝は持氏の遺児である「春王丸」と「安王丸」を結城城に招き入れ反乱を起こし、「結城合戦」が始まった。
義教が再び関東に大軍を送り込む
鎌倉公方側の将達が結城城で挙兵すると、義教は再び大軍を関東に送りこんだ。
しかし、鎌倉公方側は結城城に籠城し戦いは長期化、義教はさらに畠山持国にも関東出兵の命を出したが持国はこれを拒否した。
命令を聞かない持国に怒った義教は畠山持国を畠山家の家督から外し、代わりに持国の弟・畠山持永に家督を継がせた。
兵糧が尽きた結城城が陥落、持氏の遺児達は義教により殺害される
兵糧が尽き、幕府軍の総攻撃を受けた結城城は陥落。持氏の遺児であった春王丸と安王丸は京への輸送中に義教から処刑命令が下され殺害された。
こうして、結城合戦は終焉したが、関東では鎌倉幕府と関東管領のいない状態となり関東戦乱へと突入していくこととなった。
周辺諸国への圧迫
大和国
大和国では「大和永享の乱」によって、筒井氏と、越智氏・箸尾氏といった有力国人の騒乱が続いていた。
義教は筒井氏を支援、異母弟の大覚寺義昭が挙兵したという名目で朝廷から「治罰綸旨」を受けて相手を「朝敵」とし討伐軍を派遣し、越智・箸尾方を討伐した。
これが戦国期における朝廷の権威復興の一因となったとする説もある
守護への圧力
独裁者となった義教は守護を抑制するため、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏、今川氏など有力守護に対して、その家督継承に積極的に干渉することにより、将軍の支配力を強める政策を行った。
また、自分の気に入らない土岐持頼を暗殺しさらに、武功のあった一色義貫をも謀反の疑いで暗殺している。
これらの行動は守護大名たちに大きな不安を与えた。後に起こる義教暗殺のきっかけとなっていった。
天皇との関係
武将達に恐れらていた義教だったが、北朝天皇家との関係は良好で、後花天園天皇が皇位につくと、まだ若年だったため、しばらくは義教が政務を代行し、その後、後花天園天皇が成長すると政務代行兼を返上し、
後花園天皇の補佐に徹した。
また、自身の立場を立場をわきまえていて、後花天園天皇の妹を猶子とする話しがでても「自分にはもったいない」と申し出を断っている。
最 期
義教が赤松宗家の所領を没収しそれを赤松分家に分け与えたことから赤松家の恨みを買う
1440年、義教は有力守護大名を抑制する一環として、赤松満祐の弟・赤松義雅の所領を没収して、その一部を義教が重用する
赤松分家の赤松貞村と細川持賢(細川典厩家)に与えた。これが原因で義教に対する赤松家の憎悪がさらに高まった。
また、1437年ごろから満祐が将軍に討たれるという噂がすでに流れていた。
赤松満祐と教康によって義教が暗殺される
1441年、満祐の子の赤松教康は、結城合戦を終えた慰労という名目に、猿楽を鑑賞する催しを計画し、義教を屋敷に招待した。
これに応じた義教は大名や公家ら側近を伴って赤松邸に出かけ猿楽を観賞したが、鑑賞中に突如屋敷に馬が放たれ、甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、義教は傍にいた山名熙貴、
京極高数、大内持世らと共に首をはねられ死去した。
この暗殺を計画したのは義教を恨んでいた赤松満祐と教康親子であった。将軍が暗殺されたことで混乱した幕府は赤松親子に追っ手を差し向けられることが出来ず、赤松親子は播磨に帰国した。
義教の死去後(嘉吉の乱)
山名家が赤松家討伐の軍を出し赤松家が滅ぶ
義教の葬儀が等持院で行われたが、幕府の混乱のため、管領・細川持之のみが出席する状態であった。
持之は朝廷に綸旨を求めたが義教の恐怖政治を終わらせた赤松親子に対する同情も多かったため綸旨はなかなか出されなかったが、
ようやく綸旨が出されると山名宗全らが赤松家を追討し赤松氏嫡流家は一旦滅亡した。
義教の子・義勝、義政が家督を継ぐがまだ幼かったため次第に幕府の権力は低下していく
義教の後継者は長男・足利義勝が継いだが、程なくし病没、義勝の弟・義政がその跡を継いだが 幼い将軍が2代にわたって続くことで、足利将軍の権力は低下していくこととなり、実権を持った足利将軍は義教で実質最後となった。
万人恐怖と言われる由縁
将軍に笑顔を作っただけで所領没収
義教の直衣始の儀式の際(天皇の許しを受け、初めて直衣を着用する儀式)、紙のろうそくを持ってきた東坊城益長が笑った。これをみて義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長は所領2か所を没収され蟄居を命じられた。
京都中の鶏を追放
一条兼良邸で闘鶏が行われたときに、大勢の人々の見物行列が起きた。その行列の影響で道を通ることのできなかった義教は激怒し、闘鶏を禁止し、京都中の鶏を洛外へ追放した。
気に入らない相手に挨拶しただけで重い罪
義教の側室・日野重子の兄である日野義資は、義教にめちゃくちゃ嫌われていた。義教が将軍就任すると義資の所領2ヶ所を没収し、謹慎させた。
さらに、重子が義教の嫡子(後の足利義勝)を産むと、伯父になる義資のもとにも祝賀の客が訪れた。これを気に入らなかった義教は義資のもとへ訪れた客60人余の所領没収などの処罰をあたえた。
その後、義資が何者かに斬殺されると、義教の討手であるという噂が流れた。この噂を口にした公家の高倉永藤は所領を没収され長門・周防方面へ流刑となった。
自分を祝わないやつにも処罰を
義教の大将拝賀時にお供をしなかった田向経良は中納言昇進が中止となり、領地没収の処罰を受けた
梅の枝を折っただけで切腹
ある時、義教のもとへ梅の枝が献上さらた。その梅の輸送中に枝が折れたため庭師3人を牢に入れ、事務を取り扱う地侍5人の逮捕も命じた内2人をただちに切腹させた。
お酒の注ぎ方が下手なだけで処罰
酌の仕方が下手だという理由で侍女を激しく叱り、髪を切って尼にさせられた。
説教した僧の舌を切る
日蓮宗の僧・日親は義教に意見を述べたためき、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。
世阿弥を冷遇
義教は猿楽を好んでいた。なかでも音阿弥を支援し反対に世阿弥には冷遇していたため佐渡へ島流しを行った。
足利義教が出演したドラマ
- NHK大河ドラマ「花の乱」
演:小林勝也