室町幕府の三管領の1つに数えられた足利一族
幕府を操るまでの権威を誇ったが没落した
細川(京兆)家

松笠菱(細川向かい松)
目 次
年 表
1200年頃 | 細川義季が細川を称す |
1336年 | 細川和氏が四国へ派遣される |
1348年 | 観応の擾乱では四国の軍勢を率い、尊氏方として直義方と戦う |
1352年 | 伊勢・伊賀両国の守護となる |
1358年 | 2代将軍・足利義詮の最初の執事に命じられる |
1362年 | 南朝方に降る |
1366年 | 頼之が管領に就任する |
1390年 | 頼之は備後守護となる |
1391年 | 明徳の乱で幕府方として戦う |
1392年 | 頼之が死去 |
1397年 | 頼元が死去し満元が家督を継ぐ |
1421年 | 満元が管領を辞任 |
1426年 | 満元が死去する |
1429年 | 持元が死去する |
1432年 | 持之が管領となる |
1441年 | 赤松満祐が結城合戦祝勝会で将軍足利・義教を殺害する |
1442年 | 持之が管領を辞任し出家する |
1445年 | 勝元が管領となる |
1454年 | 畠山家で内紛がおこる |
1455年 | 伊予守護となる |
1455年 | 享徳の乱(関東管領・上杉、幕府VS鎌倉公方) |
1464年 | 管領職を辞任んする |
1467年 | 応仁の乱 |
1473年 | 細川勝元が死去 |
1477年 | 山名政豊と和睦し応仁の乱収束 |
1482年 | 畠山義就討伐に出陣 |
1493年 | 足利義澄を第11代将軍として擁立しクーデターを起こす(明応の政変) |
1494年 | 足利義澄を第11代将軍となり政元が管領に就任(幕府を掌握) |
1499年 | 足利義材が近江に侵攻 |
1501年 | 政元が隠居し3人の養子(澄之・澄元・高国)を迎える |
1501年 | 澄之が澄元を攻めるが敗れ後継者の地位は澄元のものとなった |
1506年 | 畠山尚順と畠山義英が、反政元の立場を鮮明にした |
1507年 | 政元が暗殺される |
1508年 | 細川高国が京都に侵攻し澄元を破る |
1509年 | 澄元と之長が京都に侵攻するが敗れる(如意ヶ嶽の戦い) |
1511年 | 澄元が義澄を擁立して京に侵攻(船岡山合戦)するが高国・大内義興に大敗する |
1518年 | 大内義興が周防に帰国 |
1519年 | 澄元と之長が摂津に侵攻(田中城の戦い) |
1520年 | 将軍・足利義尹が澄元に内通し澄元政権が誕生し高国が近江へ逃亡 |
1521年 | 高国が足利義晴を擁立し将軍とする高国政権が誕生 |
1526年 | 丹波で波多野家、阿波で細川晴元(澄元の遺児)や三好元長が挙兵 |
1527年 | 桂川原の戦いで細川晴元・三好軍が幕府・高国軍を破り高国政権が崩壊する |
1530年 | 高国が京に進軍する |
1531年 | 高国が晴元の重臣・三好元長に撃退され自害する。 |
1532年 | 晴元の計略により三好元長が戦死 |
1534年 | 晴元が三好元長の嫡男・三好長慶と和睦して家臣に組み入れるg |
1521年 | 高国が足利義晴を擁立し将軍とする高国政権が誕生 |
1526年 | 丹波で波多野家、阿波で細川晴元(澄元の遺児)や三好元長が挙兵 |
1527年 | 桂川原の戦いで細川晴元・三好軍が幕府・高国軍を破り高国政権が崩壊する |
1530年 | 高国が京に進軍する |
1531年 | 高国が晴元の重臣・三好元長に撃退され自害する。 |
1532年 | 晴元の計略により三好元長が戦死 |
1543年 | 細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒をあげて和泉国で挙兵 |
1545年 | 山城国で細川元治・元全・国慶が反晴元のため挙兵したため晴元が丹波へ逃亡 |
1547年 | 晴元・三好長慶が反乱を鎮圧 |
1548年 | 三好長慶が反晴元派へ寝返ったため晴元が将軍・義輝らと共に近江国坂本まで逃れた |
1551年 | 細川氏綱が細川氏当主となる |
1553年 | 晴元が将軍・義輝と共に三好長慶と交戦する |
1557年 | 丹波国の殆どが三好領となる |
1558年 | 晴元が上洛を図り将軍山城で三好軍と交戦する(北白川の戦い) |
1561年 | 晴元が三好長慶に敗れ摂津の普門寺城に幽閉される |
1568年 | 織田信長が足利義昭を擁立し上洛 |
1570年 | 信長と和睦する(信長の臣下になる) |
1577年 | 信長から桑田郡と船井郡の二郡を与えられる |
家 紋

松笠菱
細川家の出自
清和源氏足利氏の支流として誕生
細川家の始まりは鎌倉時代中期、「承久の乱」後、足利義康の曽孫である義季が三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)を本領として移住して「細川氏」を名乗るようになった。
また、嫡流であり三管領(三管四職)の1つに数えられた家系「京兆家」という。
一方で細川藤孝を輩出した細川家は佐々木源氏をルーツに持つ細川家の支流である。
室町時代
南北朝時代、細川氏の和氏・頼春・師氏の三兄弟は足利尊氏に従い北朝・室町幕府方として活躍し、畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力守護大名となり幕府内の重鎮となった。
また、細川頼之は管領として3代将軍足利義満を補佐した。その後も代々官僚に命じられた。この頼之の家系を「京兆家」といい斯波氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられた。
戦国時代初期
細川政元が細川家の全盛期を築く
戦国時代初期、細川勝元は応仁・文明の乱際に東軍の総帥となった。なお阿波細川師は詮春以降世襲し、京都の管領家「京兆家」を「上屋形」と称したのに対し「下屋形」と呼ばれ四国で勢力を伸ばしていった。
その後、勝元の子・政元は将軍・足利義材(義稙)を廃して実権を掌握し(明応の政変)、「半将軍」と呼ばれるほどに権力を保持し細川家の全盛期を築いた。
しかし、修験道にハマり、天狗のまねをしたり奇行癖があったという。また生涯女性を傍に寄せなかったため実子はなく、3人の養子をとり後にこの3人の養子が家督争いを起こし細川家が没落する原因となる。
ドロドロの家督争い
政元の1人目の養子は関白・九条政基の子で「澄之」
2人目は阿波細川家・細川義春の子「澄元」
3人目は備中細川家・細川政春の子「高国」であった。
政元政権を継いだのは澄之であったが、公家出身の澄之に不満を持つものも多く、澄元が澄之を倒して京兆細川家を継いだ。
しかし、政元に追われ周防の大内義興を頼っていた前将軍・義稙が義興に擁立されて上洛、3人目の養子である高国もこれを支持し、将軍・義澄と澄元を破り入京した。
敗れた義澄と澄元は近江に逃れ、家督と管領職は高国が継いだ。
その後、高国は澄元の子・細川晴元とその家宰の三好元長と戦いこれに敗れ細川の家督は晴元が継いだ。
戦国時代中期
晴元政権
高国を破った晴元は家臣である三好元長の権力が大きくなるとこれを討ち、和睦した将軍・義晴を擁して家督を継ぎ管領に就任、幕政と京都を握った。
その後も、晴元は高国の弟の細川晴国や高国の養子の細川氏綱、宗教一揆の法華宗などとたびたび争っていたが、1549年、元長の子で実力者となっていた配下の三好長慶の下克上を受けて近江へと追われ、細川政権は崩壊した。
細川家の終焉
下剋上を成し遂げた三好長慶は主君・晴元と対立する氏綱側に寝返り、氏綱に京兆家の家督を継がせたが氏綱は実権を握れず長慶の傀儡状態となり、三好政権へと取って代わられることとなった。
晴元はその後も将軍・足利義輝を擁して長慶との争いを続けるがかなわず、最終敵には長慶と和睦し、京兆家はかつての権勢をすっかり失って衰退し、代わって京・畿内は織田信長が上洛するまで三好氏の勢力下となる。
その後の細川家
晴元の嫡子・細川昭元は、足利義昭から織田信長に仕え、信長の姉妹を正室として娶り義兄弟として織田家親族となった。
昭元の嫡子・元勝(頼範)は、豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の陣では豊臣方となった。大坂の陣での豊臣家滅亡後は讃岐国に隠棲し、後に妹の嫁ぎ先の秋田実季を頼り常陸国の宍戸藩の客分として迎え入れられた。
武 将 (名前クリックで詳細)
細川勝元 |
細川京兆家11代当主。23年間も管領職を歴任し幕政に影響力を及ぼした応仁の乱の東軍総大将として活躍した。 |
細川政元 |
細川京兆家12代当主。足利義材を追放して義澄を擁立し幕府の実権を掌握、事実上の最高権力者になり、「半将軍」とも呼ばれた |
細川澄之 |
細川京兆家13代当主。関白・九条政基の子。将軍・足利義澄の従兄弟。実子の居なかった細川政元の養子となるが義理弟・澄元に破れ自害する。 |
細川澄元 |
細川京兆家14代当主。細川義春(安房細川家)の子、実子の居なかった細川政元の養子となる。義理弟・高国に破れ家督を奪われ失意の内に病死する |
細川高国 |
細川京兆家15代当主。細川政春(野州家)の子。実子の居ない細川政元の養子となる。両細川の乱にて義理兄・澄元を破り管領となるが澄元の子・晴元に破れ自害する。 |