概 要
細川満元の三男。「嘉吉の乱」の後に摂津中島郡の分郡守護となり初代・典厩細川家となる。 その後、細川勝元の後見人となり幕政に参加する。
ポイント
- 細川満元の三男
- 摂津中島郡の分部守護となり典厩細川家の初代当主となる
- 細川勝元の後見人となり幕政に参加
誕生・死没
- 誕生:1403年
- 死没:1468年
- 享年:66歳
名 前
- 弥九郎(通称)
- 道賢(法名)
官 位
- 右馬助、右馬頭
役 職
- 室町幕府:摂津分郡守護
略 歴
1403年 | 0歳 | 細川満元の三男として誕生 |
1441年 | 39歳 | 将軍・足利義教が暗殺される(嘉吉の乱) 摂津中島郡の分郡守護となる |
1442年 | 40歳 | 甥・細川勝元の後見人となる |
1443年 | 41歳 | 出家する |
1447年 | 45歳 | 徳政一揆の鎮圧に出陣 |
1467年 | 65歳 | 応仁の乱が勃発 |
1468年 | 66歳 | 死去 |
出 生
京兆細川家当主・細川満元の三男として誕生する
1403年、持賢は京兆細川家の当主・細川満元の三男として誕生した。
兄弟には京兆細川家の家督継いだ、持元と持之がいる。
その後、室町幕府4代将軍・足利義持の偏諱を受けて「持賢」と名乗り元服する。
室町幕府での活躍
嘉吉の乱の戦後処理により摂津中島郡分郡守護となる
1441年、6代将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺されると、幕府は山名家らを筆頭に赤松家討伐軍を編成し赤松家を討伐した。
赤松氏の討伐により、赤松氏の旧領「摂津中島郡」は室町幕府の直轄領となり持賢はその代官に任命され分郡守護となった。
細川勝元の後見人となり幕政に参加
1442年、京兆細川家当主・細川も持之(持賢の次兄)が死去すると、持之の子・勝元が京兆細川家の家督を継いだ。
勝元はまだ幼少だったため、持賢が後見人となり勝元をサポートし幕政に参加した。
最 期
畠山家との勢力争い
万人恐怖の政治として恐れらた6代将軍・義教死後、義教の介入で家督を追われた者達が各地で復権のための騒動を起こした。
さらに、幕府内での主導権争いを行っていた細川家と畠山家がこれらのお家騒動に介入し事態は深刻化した。信濃国では畠山持国が推す小笠原持長に対し持賢・勝元は小笠原宗康・光康兄弟を支援、加賀国では持国が推す
富樫教家・成春父子に対し持賢・勝元は富樫泰高を支援し、混乱に拍車をかけこれが「応仁の乱」へと進展していく。
応仁の乱
1467年、「応仁の乱」が勃発すると、持賢は土佐国の軍勢を引き連れ東軍として参戦し、細川勝元を支援した。
死 去
1468年、「応仁の乱」の勃発から1年後、持賢は死去した。享年66
持賢には嫡嗣がいなかったため、養子として甥(勝元の弟)の成賢と分家の野州家から政国を迎え、家督は政国が継いだ。
細川持賢が出演したドラマ
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無し