父・義満とは異なる政策を実施し、政権を安定させた幕府4代将軍

足利 義持あしかが よしもち

足利義持

足利義持肖像(神護寺蔵)

概 要

  ポイント

  • 足利義満の子で室町幕府4代当主
  • 恐怖政治を敷き「万人恐怖」と称された
  • 赤松満祐により暗殺される

誕生・死没

  • 誕生:1386年
  • 死没:1428年
  • 享年:43歳
  • 墓所:相国寺勝定院
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氏 族

官 位

  • 正五位下、左近衛中将、征夷大将軍 従四位下、正四位下、参議 従三位、権中納言、正三位、従二位 権大納言、正二位、従一位、右近衛大将 、内大臣、淳和奨学院 両院別当、贈太政大臣

役 職

  • 室町幕府:第4代征夷大将軍

親 族

足利義満
藤原慶子
正室 日野栄子(日野資康の娘)
兄弟 尊満、宝幢若公、義持義嗣、義教、大覚寺義昭ほか
義量

略 歴

1386年 0歳   足利義満の嫡男として誕生
1394年 9歳   将軍職を継承
1406年 20歳   右大臣に就任
1410年 24歳   明との国交を断絶
1416年 30歳   関東で上杉禅秀の乱が起きる
1417年 31歳   上杉禅秀の乱が鎮圧
1418年 32歳   謀反を企てた弟・義嗣を殺害
1423年 37歳   足利持氏と対立したため討伐軍を関東に送る
将軍職を嫡男・義量に譲り出家する
1423年 37歳   足利持氏と対立したため討伐軍を関東に送る
将軍職を嫡男・義量に譲る
1424年 38歳   足利持氏が降伏
1425年 39歳   足利義量が死去し再び将軍となる
1428年 43歳   死 去

出 生

室町幕府3代目将軍・足利義満の嫡男として誕生

1386年、義持は3代将軍・足利義満の着案として誕生した。
その後、1394年に9歳で4代将軍となるが、将軍就任時の父・義満の権力は全盛期で若い義持は実権を持てなかった。

父・義満の死

父・義満の死によって家督争いが勃発

1408年、父・義満が後継者を指名しないまま死没したため、幕府内で家督争いが勃発した。
後継者争いの一人は義満の嫡男の義持でもう一人は生前の義満が溺愛していた義持の異母弟・義嗣である。
世間では義持をよりも、義満の偏愛を受けた義嗣が後継者になると見られていたが、管領の斯波義将の主張により家督は義持が相続することに決まった。

家督相続後

父・義満とは違う独自の政策を行う

義満が居なくなり名実共に将軍となった義持はまず、義満が営んだ北山弟を放棄し、祖父である義詮が移住していた三条坊門の池へと移住した。
その後、寺社等の所領安堵を行ない、寺社の復興を行い所領政策を実施、余った土地を法令の基を出し、闕所給与の制度を整えた。
また、父・義満の時代に最盛期を迎えていた明との交易も義持は方向転換を行い、明との国交を断絶した。

政権の人員整備

義持の将軍就任の立役者であり義持に影響を与えた管領・斯波義将が死没すると、義持は斯波氏を幕政の中心から外した、管領職に畠山満家を任命した。
また、側近として富樫満成を登用し、義持の正室・日野栄子の兄・重光とその子義資を重用するなど、政権内に信頼できる人物を配置した。

上杉禅秀の乱

関東管領・上杉禅秀と義持の弟・義嗣が結託し謀反を起こす

1416年、義持に不満を抱いていた義嗣と鎌倉公方・足利持氏に不満を抱いていた関東管領・上杉禅秀が結託し謀反を起こした。
関東で謀反を起こした上杉禅秀に対し義持は当初は傍観していただけだったが、持氏が禅秀に敗れ駿河に落ち延びると、義持は駿河守護・今川範政と越後守護・上杉房方に持氏支援を命じた。

その後、禅秀に呼応し義嗣も反乱の挙兵を計画するがこれは失敗に終わり義嗣は相国寺塔頭林光院に移され幽閉された。

上杉禅秀の乱の終結

1417年、上杉禅秀の乱は幕府の支援を得た持氏により鎮圧され、義嗣も義持により殺害、義嗣に味方した土岐持頼、畠山満慶、山名氏は処罰を受けた。

鎌倉府との対立

上杉禅秀の乱の戦後処理を巡り幕府と鎌倉府が対立する

上杉禅秀の乱で協力関係であった幕府と鎌倉府であったが、その戦後処理を巡って両者は対立、持氏は反乱軍に味方した諸大名を徹底的に討伐し岩松満純や武田信満らは持氏の追討を受けて処刑、自害に追い込まれた。
その他にも持氏は関東各地に軍を派遣して討伐したため、持氏と関東各国の諸大名との間には大きな溝が生まれた。

さらに、信満の死により甲斐守護職が空白になったため、その後釜を巡って持氏と義持は対立。持氏は逸見有直を甲斐守護に推したが、義持はこれを拒否し武田信元を任命した。
また、常陸国でも佐竹義憲(持氏)と山入与義(義持)の守護職問題が起こり、義持は上杉憲直に命じて山入与義一族を殺害した。

義持の怒りが頂点に達し持氏討伐軍を派遣する

1423年、義持は持氏の強引な戦後処理に激怒し駿河守護・今川家や信濃守護・小笠原家さらに篠川公方の足利満直や奥州探題・大崎氏に義持は持氏討伐のための命令を出した。
追い詰められた持氏は、義持に起請文を送って和睦を申し出て最終的に両府は和睦した。

出 家

将軍職を嫡男・義量にゆずり出家する

1423年、義持は嫡男・義量に将軍職を譲り、出家して道詮(どうせん)と号します。しかし、義量はまだ幼く幕府の実権は義持が握っていました。
だが、その2年後、義量が数え19(満17歳)で急死してしまいます。しかも、義量には嫡男がおらず、義持にも義量の他に成長した男子がなかったため、義持が再び幕府を統括することになった。

義持をとりまく問題

嫡男・義量が死没(将軍職は空位となる)したため、政界に戻った義持だが、嫡子がいないまま死没した称光天皇の継承問題や幕府でも細川氏、畠山氏、上杉氏などをめぐる政争がなど、様々な問題があった。 。

赤松家問題

1427年、幕府宿老であった播磨守護・赤松義則が死去し、嫡子・赤松満祐が家督を継いだ。
この時、赤松家の所領は播磨・備前・美作の3か国であり、満祐は当然3か国の安堵を望んだが、義持は「播磨」は幕府直轄領とし、義持のお気に入りだった赤松庶流の赤松持貞を代官に任命して置いた。
満祐はこの命令を拒否し、京都にあった自分の家に火をかけ播磨に帰国した。義持は満祐の行為に激怒し、赤松領の備前と美作も没収して赤松満弘(赤松光範の子)と赤松貞村に与える内示を与え、さらに山名氏や一色氏に対して赤松討伐を命じるまでになった。
しかし。大名達は満祐に同情するものも多く、管領・畠山満家は討伐に反対して仲介に乗り出し、一色氏は理由を付けて出陣を拒否。積極的だったのは命令を出した義持とかつての旧領奪回を燃える山名氏だけだった。
赤松討伐がうやむやな中、赤松持貞が義持の側室と密通していたという密告があった。持貞はこれを否定しますが、義持はこれを聞き入れず持貞は切腹した。
その後、うやむやになっていた赤松討伐は中止となり、赤松満祐は罪を許されて3か国相続を認められた。

最 期

おしりの傷が悪化し重篤状態となる

1428年、義持は浴室で尻に出来たできものを破ったことにより発熱を起こした。傷は次第に大きくなり、やがて座るのも困難なほどであり義持は重態に陥った。

後継者選び

義持が重篤状態となると、管領・畠山満家をはじめ、斯波義淳、細川持元、畠山満慶ら幕府重臣は、義持のブレーンであった満済の下に集合して後継者選定に関して話し合いを始めた。
しかし、義持は自ら後継者を決めるつもりはなく、後継者を幕府の重臣達に一任した。これを受けた満済は義持の弟4人からくじ引きで後継者を決める事を提案しこれが可決、義持の意思でくじは義持が死去してから行われることになった。

義持の死

 1428年1月17日、義持は昏睡状態となると、その翌日に死去した。死因は敗血症(感染症)であったといわれている。

その後、後継者選びのくじが行われ結果、義持の弟・義円(後の足利義教)が選ばれた。

人 物

禅宗の信仰

義持は禅宗を強く信仰していた。特に中国の禅宗文化を愛好して、五山長老が着た黄衣の僧服を好んで着ていたという。 また、その影響で義持の周辺には大名や京都五山の禅僧が参集して文化会が形成され、水墨画が発展した。現在国宝に指定されている如拙筆の「瓢鮎図」も義持の発案・指導によって描かれた。義持自身も絵を書き、現在も義持が書いたとされる絵が15点ほど残っている。また、東京国立博物館所蔵の「芭蕉夜雨図」は、義持周辺の文化空間を代表する作品として知られる。

大酒のみ

父・義満と比べて倹約型であり、御所の造営や義満関連の仏事は縮小された。一方で、大酒飲みであり享楽的な人物とも評されている

医薬

医薬への関心が深く、香薬類の代表的合薬である潤体円を公家の山科教言に与えたり、医師の坂士仏宅を訪問したこともある。霊宝丹(ういろうの元)の確保のためそれを日本に持ち込んだ陳外郎を登用した。

実は短気でストレスを溜めやすい性格

義持は弟の義教に劣らず「短気な性格」だったといわれている。また信心深く、多くの寺社に参詣・参籠した。なかでも北野社には数え切れないほど参拝していて義持の信心だけが要因ではなく、政治的ストレスの解消を目的としていたのではないかともされている。

足利義教が出演したドラマ

参考資料(引用元)