ポイント
- 結城政朝の三男だが小山家に養子にでる
- 結城氏と協力して勢力を維持する
- 上杉・北条との間で生き残りを模索する
官職・役職
- 官位:下野守
略 歴
1508年 | 1歳 | 小弓公方側の真里谷氏の上総国椎津城を攻撃する | 1519年 | 12歳 | 1535年 | 28歳 | 小山家に養子に入り家督を継ぐ | 1547年 | 40歳 | 宇都宮家の侵攻を撃退する | 1549年 | 42歳 | 足利公方の世継ぎ問題で北条氏と対立 | 1560年 | 53歳 | 家督を秀綱に譲る | 1561年 | 54歳 | 上杉側として小田原攻撃に参陣 | 1562年 | 55歳 | 北条家に寝返ったため上杉家に小山城を攻められ降伏 小山城を秀綱に譲る |
1570年 | 63歳 | 出家して命察と名乗る | 1575年 | 67歳 | 死 没 |
概 要
結城政朝の三男で小山政長の養子となる。父や兄と協力し、宇都宮氏ら敵対勢力と戦いう。最初こそ上杉謙信協力したが、後に北条家に寝返ったため、謙信の攻撃にあい降伏した。家督と小山城を嫡男・秀綱に譲った。
出生と家督相続
1508年、結城政朝の三男として誕生。
3代古河公方・足利高基の偏諱を受けて「高朝」と名乗る。その後、1535年頃に小山政長の養嗣子となって小山氏の家督を継承した。この際に同族である山川氏から来た同じ養子・小四郎を倒し家督を継承したとされる。
勢力維持
小山氏の家督を継いだ高朝は父・政朝や兄・政勝と協力して、結城氏の敵対勢力、特に宇都宮氏と戦うことになる。
1547年)、父・政朝が没するとその隙を突いて宇都宮氏が攻めてきくる、高朝は兄と協力してこれを撃退している。
さらに、1559年には小田氏治が結城城に攻めるが、高朝は小山軍・結城軍を率いて氏治を撃退している。
1549年には、北条氏康とが古河公方・足利晴氏の後継の考え方で対立(北条家が義氏を擁立、小山家は嫡男・藤氏を擁護していた)
しかし、この対決は兄・結城政勝と嫡男・秀綱が義氏方についたことで決着。高朝は隠居を余儀なくされ、1560年頃に秀綱に家督を譲った。
上杉家の関東出兵
1560年、上杉謙信が関東へ出兵すると高朝は謙信に味方した。1561年の小田原城の戦いでは上杉軍の一員として参じている。
しかし、その後に謙信との間で不和(関東管領就任式で千葉家に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われている)が生じ、直後に北条氏康に内応した。
これに怒った謙信は1562年に高朝の小山城を攻め降伏させた。
その後、行き場を失った高朝は秀綱に小山城を譲り渡して榎本城に退き、1570年頃に出家して「命察」と号し、1575年に死没している。
逸 話
1559年、兄・結城政勝が没すると、三男・晴朝が結城氏家督を継いだが、晩年の高朝は結城氏の菩提寺の住職にあてて「自分が小山氏を継いだ頃は、何かがあると両親(結城政朝夫妻)が小山に来るので困惑したものだが、晴朝の事を考えると両親の気持ちが良く分かる」という趣旨の書状を出して、自分に代わって晴朝を助けてくれる様に求めている。
一方、晴朝も同じ頃に父の健康が優れない事を聞いて、乱世で結城氏を守るためとはいえ父を攻めた罪に悩んでいる事を同じ住職に告白する書状を送っている。