ポイント
- 氏広の嫡男として誕生し2歳で家督を相続
- 多賀谷氏を謀殺し実権を奪還する
- 佐竹、岩城、宇都宮家を破り勢力を拡大
- 「結城氏中興の祖」と言われる
官職・役職
- 官位:左衛門督
略 歴
1479年 | 1歳 | 結城氏広の嫡男として誕生 | 1481年 | 2歳 | 父・氏広が死没 家督を相続する(実権は多賀谷高経が握る) |
1495頃 | 成人 | 多賀谷和泉守を誅殺し実権を奪回する。 宇都宮成綱の娘を正室に迎える |
1514年 | 35歳 | 永正の乱では足利高基の古河公方擁立に加担する 竹林の戦いで佐竹・岩城連合を破る |
1516年 | 37歳 | 宇都宮成綱が死去(宇都宮家との関係が悪化する) | 1523年 | 42歳 | 皆川氏の援軍として宇都宮氏と戦い、撃退する(河原田合戦) | 1526年 | 45歳 | 猿山合戦で宇都宮氏に大勝する 下野まで勢力を拡大 |
1527年 | 46歳 | 家督を嫡男・政直に譲り隠居する | 1535年 | 54歳 | 三男・直朝を小山氏に養子にだす | 1547年 | 66歳 | 死 没 |
概 要
結城家15代当主。3歳と幼い頃に家督を継承したため多賀谷祥永(高経?)に実権を握られるが成人した後、祥永誅殺する。
その後は足利高基を擁立し佐竹、岩城、宇都宮家を破り、次男・高朝を小山家に送り込んで小山家を傘下に置くなど、結城家の勢力を回復させた。
出生と家督相続
1479年、14代当主・結城氏広の子として誕生する。
1481年、二歳の時に父・氏広が没するとわずか三歳で家督を相続するが実権は重臣・多賀谷祥永に握られる事になる。
異説として、山川氏(結城氏の庶派)の山川景貞が家督相続に干渉し、景貞の子・基景が結城氏の養子となっていたともいわれる。
実権奪回
立派な成人に成長した政朝は多賀谷基泰(高経の子?)の勧めで多賀谷高経を誅殺し実権を奪回し、結城氏家中を取りまとめ、結城氏の戦国大名化を成功させた。
足利公方、宇都宮家との三国同盟
実質的に結城氏の当主となった政朝は下野国の宇都宮成綱の娘を正室に迎え宇都宮家との関係を強固なものにした。
また、成綱の娘は他にも足利高基(鎌倉公方)に嫁いでいたので、政朝は足利高基や成綱の嫡男・宇都宮忠綱と義兄弟となり三国は同盟関係となった。
永正の乱
1514年の永正の乱では、足利政氏と嫡男・高氏の間で内紛(永正の乱)が起こると、義父・成綱と共に高基側についている。おのずと、政氏側についた佐竹氏・岩城氏とは敵対関係になっていった。
1514年、足利政氏救援に向かった佐竹氏・岩城氏連合軍を成綱と協力して竹林の戦い(下野国宇都宮竹林)で打ち破った。このとき結城家臣の山川朝貞、水谷勝之が活躍したと記録がある。
この戦いによって、足利高基は名実ともに古河公方となった。
義父・成綱との関係は良好であり、下野宇都宮氏・結城氏両氏は相当強力な同盟関係であった。
宇都宮家との対立
当時、軍事力、権力共に北関東随一となり、結城氏最高のパートナーであった。下野宇都宮氏の全盛期を築き上げた義父・宇都宮成綱が死没すると、家督を継いだ宇都宮忠綱との関係が悪化してしまう。
忠綱は、政朝の優れた器量を恐れ、排除するために密かに結城領を侵攻する計画を立てる(室町時代の頃の下野国旧結城領を巡って両者の間に確執があったともいわれている)。
1523年、政朝は宇都宮忠綱に不満を持っている家臣(芳賀高経、芳賀興綱)らに計略をしかけ、宇都宮領に侵攻する、結城氏と宇都宮氏は宇都宮猿山で激突し、結果は結城氏の大勝で終わり、結城氏は下野国の旧結城領を宇都宮氏から奪い取ることに成功した。
反対に宇都宮忠綱は家臣(芳賀高経、芳賀興綱)らに宇都宮城を占拠されやむを得ず、壬生綱房の居城である鹿沼城に身を寄せた
また、同年に「河原田合戦」が勃発している。(宇都宮家が皆川領に侵攻し皆川氏の当主・皆川宗成は討など等皆川氏は大打撃を受けてしまう。
結城氏は小山氏と共に皆川氏の援軍として宇都宮氏と戦い、宇都宮氏の撃退に成功する)
隠 居
1527年に家督を子・政直に譲って隠居した。しかしその後も小山氏の内紛に介入し次男・高朝を小山氏当主に擁立し、小田氏等とも抗争を繰り広げさらに勢力を拡大し政朝は、「結城氏中興の祖」とまで言われた。その後、1547年、死去した。
結城氏の勢力を広げた政朝だが、重臣であった多賀谷氏・水谷氏・山川氏の3氏の結城氏内での権力も強くなり、結城氏から独立の傾向が高まっていった。