関東の名門だが世継ぎに恵まれず家康から養子を迎える

結 城ゆうき


左三ツ巴

左に三つ巴

家系図

年 表

 1439年

氏朝の四男として「成朝」が誕生

 1441年

結城合戦で室町幕府に敗れる(氏朝、持朝が戦死し結城家が断絶)

 1449年

成朝を当主として結城家が再興される

 1451年

長朝(氏朝の三男)の嫡男として「氏広」が誕生

 1454年

足利成氏に協力し関東管領・上杉憲忠殺害に加担(享徳の乱)

 1463年

成朝が暗殺される
長朝(氏朝の三男)の嫡男・氏広が家督を継ぐ

 1471年

足利成氏と共に伊豆の堀越公方を攻める

 1472年

足利成氏の古河城回復を援護する

 1479年

氏広の子として「政朝」が誕生

 1481年

氏広が死去
家督を政朝が継ぐ(幼少のため実権は多賀谷氏が握る)

 1495頃

多賀谷氏を謀殺し実権を奪還する

 1500頃

宇都宮家と同盟を結ぶ

 1500頃

政朝の次男として「政勝」が誕生

 1514年

永正の乱では足利高基側につく

 1523年

宇都宮家との同盟が破棄され河原田合戦で戦う

 1526年

宇都宮氏に大勝する(猿山合戦)
下野にまで勢威を拡大した

 1527年

政朝が隠居し家督を政直(?)が継ぐ

 1532年

政直が死去し家督を政勝が継ぐ

 1534年

小山高朝の三男として「晴朝」誕生

 1539年

那須家の内紛に介入

 1547年

宇都宮家の進攻を撃退

 1552年

宇都宮氏の小栗城を攻略

 1556年

海老島合戦に参陣し小田氏の小田城を攻める
分国法『結城氏新法度』を制定する

 1559年

政勝が死去。家督を養子・晴朝(政勝の弟の子)が継ぐ

 1560年

佐竹・宇都宮・小田の連合軍に攻められるが撃退する
謙信の関東管領に伴い反北条に転じる

 1570年

平塚原の戦いで小田氏治と激突

 1577年

北条氏に攻め込まれるがこれを撃退

 1590年

小田原征伐に参陣し所領を安堵される
徳川家康の三男・秀康を婿養子として迎える
晴朝が隠居し家督を秀康に譲る

 1600年

関が原の戦いでは東軍に加担

 1604年

越前に転封
姓を「松平」に改める

家 紋

左三巴

左三巴

出 自

藤原秀郷の末流といわれる。秀郷の五世の孫「頼行」を祖先とし、「朝光」の時代(平安時代後期)に源頼朝の挙兵に従い、志田義広滅亡後の鎌倉時代には下総国の結城を領したことが結城氏の始まりであるとされている。このときに戦功を挙げ源頼朝に重要された。

下総結城氏と白河結城氏

下総結城家…広綱の系統。

白河結城家…朝光の孫「広綱」の時、広綱の弟「祐広」が陸奥白河を領してそこに住み白河結城氏の祖となった。

南北朝時代

宗家である下総結城氏は足利尊氏の鎌倉挙兵以来、常に北朝勢力(足利尊氏側)として働いていた。(白河結城氏は南朝)そのため、室町時代には下総結城氏は関東における一大勢力となり、宇都宮氏や佐竹氏・小山氏と並んで関東八家の一つに数えられるに至った。

戦国時代突入前

1420年ごろ11代当主・氏朝は小栗満重に加担して上杉憲実の討伐を受けた。上杉家とはそれ以後、対立することになった。1438年には鎌倉公方・足利持氏が挙兵し永享の乱を起こすや持氏側となって戦っている。
 享徳の乱そのものは翌年、持氏の自殺によって終息するが、その後、持氏の遺子「春王丸」、「安王丸」が常陸で挙兵すると氏朝は二人を擁立し結城城に招いた。
 乱は上杉憲実および室町幕府によって鎮圧。春王丸、安王丸は美濃で斬られ、氏朝・持朝親子(討ち死にとも)は自殺した。

結城家再興と戦国時代初期

氏朝・持朝親子の死によって結城家は断絶したが、鎌倉公方が持氏の子「成氏」によって再興されると結城家も成朝(氏朝の四男)を当主として再興を許された。

結城家再興と戦国時代初期

氏朝・持朝親子の死によって結城家は断絶したが、鎌倉公方が持氏の子「成氏」によって再興されると結城家も成朝(氏朝の四男)を当主として再興を許された。

結城氏の全盛期

政勝の時代になると結城氏の勢力が全盛期を迎える。政勝は分国法である「結城家法度」を制定、小田氏治と戦ってこれを破り、勢威を常陸や下野にまで伸ばして勢力圏も大きくなった。

後継者不足

政勝の死後、明朝(政勝の長男)が家督を継いだがわずか1日で死んだと言われ、政勝の甥・晴朝が継いだ。しかし、その晴朝も子がいなく、1590年、徳川家康の子「秀康」を養子として迎え家督を継がせた。
 その後は、関が原合戦で宇都宮城に入城し上杉家の西上を阻止し越前北庄を居城として 七十万石の大名となった。

主な本拠地

  • 結城城【栃木】

武 将 (名前クリックで詳細)

 結城成朝
(1439-1463年)

氏朝の四男で下総結城氏13代当主。結城合戦で父・兄が戦死し結城家は一時滅亡した。しかし、取り残された成朝が5代鎌倉公方・足利成氏の計らいで結城家を再興した。

 結城氏広
(1451-1481年)

結城氏13代当主・成朝の甥(成朝の兄・長朝の子)。
 成朝が家臣に暗殺されると、家中の者に擁立され結城家の家督を継承する。家督を継承した後は、足利成氏の将として堀越公方や上杉家などと戦った。

 結城政朝
(1479-1547年)

「結城氏中興の祖」と言われた結城家15代当主。3歳と幼い頃に家督を継承したため多賀谷祥永(高経?)に実権を握られるが成人した後、祥永誅殺する。その後は足利高基を擁立し佐竹、岩城、宇都宮家を破り、次男・高朝を小山家に送り込んで小山家を傘下に置くなど、結城家の勢力を回復させた。

 結城政直
(?年-?年)

近年存在が確認された政朝の長男。

 結城政勝
(1503-1559年)

結城氏16代当主。政朝の次男。北条家と結び佐竹、宇都宮と争い下野、常陸国の一部を支配下に納める。また分国法『結城氏新法度』を制定する。

 結城明朝
(?-1559年)

結城氏16代当主・政勝の嫡男。家督を継いで疱瘡が原因で1日で死去したという。

 結城晴朝
(?-1559年)

結城家17代当主。小山高朝の次男。伯父・政勝の養子となる。北条・上杉両家の間で離合集散を繰り返し戦国時代を生き延びた。世継ぎに恵まれず徳川家康の三男・秀康を養子とした。

 多賀谷重経
(1558-1618年)

結城氏と佐竹家の双方に属した特殊な立場だった。結城氏からの独立色を強め中央政権と密に連絡を取り合うが関が原合戦で西軍に属したため、改易され所領を全て失った。

御宿政友
(1567-1615)

御宿友綱の嫡男。武田家の滅亡後には北条家、結城秀康に仕えた。しかし、秀康の子・忠直の代に出奔して大坂城に入城、大坂夏の陣において戦死した。

岩上朝堅
(?-1569)

結城家家臣。旧姓は三浦義堅であったが、功績を立て「結城四天王」の一人となり、結城氏の重臣であった岩上姓を与えられた。

多賀谷政広
(?-?)

結城家家臣。佐竹家や宇都宮家への使者や徳川家康の次男・秀康の結城家入嗣を取りまとめるなど外交面で活躍した。

水谷正村
(1524-1598)

結城家臣。下館城主。結城四天王の一人。下野方面を担当し、宇都宮家と抗争を繰り広げた。小田原征伐に参陣し、所領を安堵された。

水谷正村
(1524-1598)

結城家臣。下館藩(茨城県筑西市)初代当主。兄・正村と共に結城晴朝に従い功績をあげる。結城家が越前に転封になると独立大名となり下館藩を発展させた。