ポイント
- 政朝の嫡男として誕生し結城家16代当主となる
- 北条家と結び佐竹、岩城、宇都宮家と争う
- 積極的な領土拡大政策を行い下野、常陸の一部を支配下に納める
- 分国法『結城氏新法度』を制定する
官職・役職
- 官位:左衛門督
略 歴
1503年 | 1歳 | 結城政朝の嫡男として誕生 | 1532年 | 30歳 | 家督を継ぐ(政朝から?政直から?) | 1539頃 | 37歳 | 那須家の家督争いに介入 | 1547年 | 45歳 | 宇都宮家の侵攻えお撃退する | 1548年 | 46歳 | 嫡男・明朝が死没 | 1552年 | 50歳 | 宇都宮家の小栗城を攻略 | 1556年 | 54歳 | 海老島の戦いで小田氏治を破る 分国法である『結城氏新法度』を制定する |
1559年 | 57歳 | 死 没 |
概 要
結城家16代当主。政朝の子。父と同じ領土拡大政策を行い北関東に勢力を伸ばす北条氏康と結び、佐竹、宇都宮、小田家らと抗争を続け下野・常陸国の一部にまで勢力を拡大する、さらに分国法を「結城氏新法度」を定めて内部の支配力を強化する。
出生と家督相続
1503年、15代当主・結城政朝の子として誕生。 通説では1527年、父から家督を継承したとされてきたが、近年では政直という兄がおり、その死をうけて天文年間初め頃(1532年前後)に結城氏を相続したとされている。
領土拡大
家督相続後は父・政朝と同様に積極的な領土拡大を行い、佐竹氏や小田氏、下野宇都宮氏とたびたび抗争した。
1539年には、那須家の内紛に介入し那須高資を支持して佐竹・小田・宇都宮氏と戦っている。
※ただしこれらの事跡はすでに隠居していた父・政朝によるものといわれている。
1547年に父・政朝が死去すると、実質の結城家当主となり宇都宮尚綱の侵攻等を、撃退している。
氏勝は北関東に勢力を伸ばしていた北条氏康と結んで宇都宮氏の小栗城を奪い、さらに海老島の戦いで小田氏治を破り、領土を下総国から下野国、さらに常陸国にまで拡大した。
分国法制定
1556年になると内部の統率を図るために分国法である『結城氏新法度』を制定した。
分国法の制定は政勝の最大の功績となり、この法は、飲食や衣類にまで及ぶ具体的な規定や、喧嘩口論に関する罰則などが定められたかなり細かい法で当時としては斬新的なものであったと言われている。
晩 年
政勝は子に恵まれず、唯一できた実子・明朝は1548年に父に先立って病死している(死亡年に関しては異説あり詳細はこちら)。
水谷正村に嫁した政勝の娘・小藤姫も、女子を出産した直後に死亡した。
そのため弟で小山氏に養子として送り込んだ・小山高朝の三男・晴朝を養子に迎えている。
明朝の死後、政勝は出家したが、晩年は病気がちであり、小田氏治の反撃を受けて領土の一部を奪われている。
そして1559年8月1日、死去。享年57。
絵描き師として
政勝はよく絵を良く描いていたようで、しばしば自画像などを描き、茨城県の大雲寺には1552年の年記をもつ自画像が残る。