山内上杉家の重臣として「関東不双の案者(知恵者)」と称された

長尾 景仲ながお かげなか

雙林寺に安置されている景仲の木造

雙林寺に安置されている景仲の木造
引用:猿ヶ京ホテル様

  ポイント

  • 鎌倉長尾氏と白井長尾氏の間の子として誕生
  • 白井長尾氏を継ぎ山内上杉家の筆頭家老となる
  • 生涯を鎌倉公方・足利成氏と争う

誕生・死没

  • 誕生:1388年
  • 死没:1463年
  • 享年:76歳

名 前

  • 孫四郎(通称)

官位・幕職

  • 左衛門尉
  • 上野・武蔵国守護代

所 属

親 族

長尾房景(鎌倉長尾氏)
正室 長尾清景娘(白井長尾氏)
兄弟 実景(義兄弟)
長尾景信長尾忠景、長尾景明、長尾景致、太田道真の正室

略 歴


1388年 0歳  長尾房景の次男として誕生
1401年 14歳  白井長尾氏を継ぐ
1416年 28歳  上杉禅秀の乱で活躍する
1438年 51歳  永享の乱が勃発では山内上杉軍として功績をあげる
鎌倉公方の滅亡
1440年 53歳  結城合戦で功績をあげる
1444年 57歳  山内上杉家の家宰(筆頭家老)となる
1447年 60歳  足利成氏により鎌倉公方の復興
1450年 63歳  足利成氏が相模国鎌倉郡長尾郷(長尾氏発祥の地)を押領する
江ノ島合戦勃発(長尾・太田氏が足利公方に敗れる)
1455年 68歳  関東管領・上杉憲忠が足利成氏により暗殺される(享徳の乱の勃発)
1456年 69歳  分倍河原の戦いで足利成氏に惨敗する
1459年 72歳  上野・羽継原の戦いで成氏軍を破る
1463年 76歳  死 没

概 要

鎌倉長尾氏(父)と白井長尾氏(母)の間に生まれる。母方の白井長尾氏を継ぎ3代当主。結城合戦での功績が認められ山内上杉家の家宰(筆頭家臣)となる。山内上杉5代の当主に仕え数々の戦で活躍し太田道真と共に「関東不双の案者(知恵者)」と称された。

鎌倉長尾氏と白井長尾氏

鎌倉長尾氏

長尾氏を発展させた長尾景忠の一族で養子の景直を祖とする家。鎌倉に居住していたことから鎌倉長尾家と称され、室町時代中期には山内上杉家の家宰となり長尾氏の頂点に立っていた。
しかし、「上杉禅秀の乱」で当時の当主・長尾実景が戦死しすると勢力は低下し家宰職は総社長尾家に移った。

白井長尾氏

長尾氏を発展させた長尾景忠を祖先とし代々上野国に土着し、白井(群馬県渋川市)を本拠地としたため白井長尾を名乗った。
景仲の時に関東管領上杉家の家宰職を務めた。

誕生と家督相続

鎌倉長尾氏・長尾房景と白井長尾氏の間に生まれる(次男)。
母方の伯父・長尾景守の婿養子となって白井長尾氏の3代目当主となる。

1401年、養父・長尾景守の死によって上杉氏の重臣である白井長尾氏を継いだ。
当時の関東管領の家宰であった総社長尾氏当主・長尾忠政と共に上杉憲定を補佐し、上杉禅秀の乱などで活躍、関東管領・上杉憲基と鎌倉公方・足利持氏を鎌倉へと復帰させた。

永徳の乱と結城合戦

1438年、古河公方・足利持氏が関東管領・上杉憲実を討伐しようとして永享の乱を起こすと、山内上杉家の家宰・長尾忠政は憲実を上野平井城に迎え入れて持氏討伐の兵を挙げた。これに景仲も副将格として参陣し、関東管領の勝利に貢献した。

その2年後、結城合戦でも功績を挙げ、1444年に長尾忠政が家宰を退くと関東管領を辞めた上杉憲実に代わって山内上杉家当主を継いだ上杉清方の要請で山内上杉家の家宰に就任した。

関東管領の空位

関東管領を継いだ上杉清方だが、即位したその年に急死した。
そのため、しばらくの間、関東管領は空位となって関東の政治は停滞した。

景仲は扇谷上杉家の家宰で婿の太田資清(道真)と相談して仙台・憲実の長男・竜忠(上杉憲忠)を擁立して関東管領を継承させた

古河公方との対立

1449年ごろ関東諸将の間で鎌倉公方を復興させる運動が起こった。幕府もこれを容認し足利持氏の遺児・永寿王丸(足利成氏)を鎌倉公方とした。

だが、足利成氏が永享の乱・結城合戦で鎌倉公方家に味方した武将の遺児達を側近として登用するようになると、上杉氏やその家臣団の反発が高まった。また、1450年には「長尾家発祥の地」である相模国鎌倉郡長尾郷が足利成氏により押領(支配)された。景仲ら長尾氏一族は足利成氏に対して激しく抗議したが、成氏側は返還には応じようとしなかった。
こうして、長尾家と鎌倉公方との間に亀裂が入っていった。

江ノ島合戦

1450年4月20日、足利成氏の横暴に我慢の限界を迎えた長尾景仲は・同僚の太田道真と共に鎌倉に向け兵500騎で謀反を起こした。
しかし、成氏は事前にこの情報を入手すると、その夜のうちに鎌倉を脱出して江の島に立て籠もった。
翌日、両者は由比ヶ浜で激突した。結果は長尾・太田軍は惨敗に終わり、景仲と道真は道真の主君である前扇谷上杉家当主・上杉持朝の糟谷館に逃げ込んだ。
景仲の当主・上杉憲忠(山内上杉)は事件に全く関与していなかったが、家臣の責任を負う形で相模国七沢に謹慎してた。

その後、憲忠は罪を許され職務に復帰、その懇願によって景仲らの罪も赦免された。
ところが、その後も成氏側・憲忠側双方の武士が対立陣営の所領を押領する事件が頻発し、両者の関係は最悪な状態となっていった。

享徳の乱の勃発

両者の関係が冷え切ったなか事件は起きた。1455年1月15日、景仲が長尾郷の御霊宮に泊りがけで参詣に出ていた夜に、憲忠は成氏の御所において、成氏軍に討たれてしまう。
この時、上杉氏の家宰職は景仲に代わって義兄弟の長尾実景が任じられていたが、実景も嫡男・景住と共に成氏方の襲撃によって殺害された。

憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は鎌倉に戻ると、直ちに管領屋敷に火を放つと共に憲忠の正室(上杉持朝の娘)ら生き残った人々を持朝の糟谷館に避難させ、その後、上杉一族の要人と協議して京都にいる憲忠の弟・房顕を次の関東管領に迎え入れると共に成氏との全面戦争の準備を整えた

景仲はそのまま領国の上野に入って兵を集めると共に、使者を越後守護・上杉房定に派遣して援軍を求めた。 1456年に入ると、成氏は上杉氏の本国である上野を攻略するために鎌倉を出発して武蔵府中の高安寺に入った。
景仲は直ちに上野・武蔵の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流した。
しかし、分倍河原の戦いにて上杉軍は惨敗、扇谷上杉家当主・上杉顕房、犬懸上杉家の上杉憲秋ら名だたる武将を多く失い、難を逃れた景仲だけが残った軍をまとめて辛うじて常陸国小栗城まで落ち延びる事が出来たが、成氏軍により小栗城も攻め落とされ景仲は上野に逃れた。(この間に今川範忠が参陣し鎌倉を占拠し、足利成氏は古河に非難した)

その後も両軍は各地で交戦した。景仲も1459年の上野・羽継原の戦いでは成氏軍を打ち破るなど、上杉軍の中核として活躍した。

しかし、1463年景仲は「享徳の乱」の最中に鎌倉にて死去。享年76歳だった。関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした生涯であった。嫡男の景信が家宰職を継いで山内上杉家を統括、成氏との戦いを継続していった。