1.城データ
築城年
- 1457年
築城者
- 成田正等(有力)
- 太田道灌
又は
別名
- 岩付城
- 岩附城
- 白鶴城
- 浮城
天守構造
- 不 明
城郭構造
- 平城
遺構
- 現存門、土塁、曲輪、空堀、土橋、馬出し
比高
- 5メートル
廃城年
- 1871年
概 要
岩槻城は従来、1457年に扇谷上杉家の家臣・太田道灌が築城したとされてきたが、近年は文明年間に古河公方の成田氏に築城されたとする説が有力となっている。
16世紀前半には岩槻太田氏の居城として史料に現れ、小田原北条氏との攻防・同盟・離反を繰り返しながら三船山合戦で太田氏資が戦死するに及び北条氏が直接支配することになった。
その後、豊臣秀吉の関東平定の際に浅野長政ら豊臣方の総攻撃を受け岩槻城は落城する。その後、徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の重臣・高力清重が城主となった。
現在は城址の南端の新曲輪が県指定史跡となり、岩槻城の城門と伝わる「黒門」、「裏門」も移築保存され、「岩槻城址公園」として整備されている。
立 地
元荒川と綾瀬川にはさまれた西北から東南へと細長く延びる洪積代地の東淵に城の中心部を構えている。16世紀末までには主郭部台地の南北対岸にも城域を拡張している。
また、奥大道の系統を引く街道と荒川の渡河(川を渡る場所)の地点にあたり、古くから市場、宿場が形成されていて水陸交通の要所であった。
構 造
岩槻城は15世紀後半に築城されてから幾度かの改修を行っている、特に1590年の小田原攻めの直前には大規模な改修を行っており、江戸時代の絵図から、城は本丸・二の丸・三の丸などの主郭域、その周囲を取り囲む沼の北側に位置する新正寺曲輪域、南岸に位置する新曲輪域という3つのブロックから構成されていたことがわかる。
新曲輪域は、秀吉の関東侵攻に備えた出丸で、土塁・空堀・馬出など戦国期の岩槻城の遺構がよく残されている。
城の西側及び南側の一帯には、戦国時代から江戸時代にかけて武家屋敷と町屋、寺社からなる城下町が形成されており、城主・北条氏房は北条家の得意とする「総構え」で準備していたと推測される。「総構え」は長さ約8KMにもおよび町側に土塁を築き、その外側に堀を設け、城と城下は巨大な防御施設によって守られる一つの大きな空間となった。
城主の移り代わり
岩槻城を築城した成田氏は、1509年までには本拠・忍城に戻り、その後は古河公方の渋江氏が城を守っている。その後、古河公方と手を結んだ扇谷上杉家が岩槻城を支配下に収める。
北条氏綱が武蔵への侵攻を開始すると、江戸城を氏綱に落とさせると、太田資頼が氏綱に内応し、渋江氏の岩槻城を落とすことになる。この時が岩槻太田氏の始まりとされる。扇谷上杉家はすぐに武田の援軍を得て岩槻城を奪還し、太田資頼を帰参させるが、翌年には太田資頼に没落させられた渋江氏が北条氏綱を頼り岩槻城を攻撃、太田氏は石戸城に後退させられる。
1531年に太田資頼は再び渋江氏の岩槻城を攻撃し再び岩槻城主に返り咲き、武蔵国をほぼ手中に治めることに成功する。太田氏の家督が資顕の時代には北条氏の勢力が強力にり、太田氏は扇谷上杉から離れ北条方につくようになる。しかし、資顕が死亡し家督を資正が継ぐと再び北条氏と敵対する。すると松山城の上田朝直がすぐに北条家に内応したため松山城は北条家の手に落ち岩槻城も北条軍に包囲され太田家は北条家に従属することになる。
その後三船山合戦で太田氏資が戦死するに及び北条氏が直接支配することになった。
障子堀
岩槻城には北条氏が得意とした「障子堀」が見つかっている。障子堀は、堀のそこに畝(うね)状の障害を設けた特徴的な堀で新曲輪では見つかった畝はその間隔が約9mあり、それを復元したものを現地で見ることが出来る。