永享の乱で活躍し扇谷上杉家の基礎を築いた

上杉 持朝うえすぎ もちとも

河越城 本丸御殿

河越城 本丸御殿

  ポイント

  • 扇谷上杉家当主
  • 永徳の乱で上杉憲実に従って持氏討伐に功績を挙げる
  • 河越城を築城させ居城とする
  • 享徳の乱の最中に死没

誕生・死没

  • 誕生:1416年
  • 死没:1467年
  • 享年:52歳

同年代の人物

名 前

  • 竹寿丸(幼名)
  • 持朝→道朝(号)

官位・幕職

  • 修理大夫
  • 弾正少弼
  • 相模守護

所 属

親 族

上杉氏定
兄弟 上杉特定(兄)、今川範忠の正室
上杉顕房三浦高救(兄)
   上杉憲忠の正室、上杉定正、叔彭梵寿
   上杉朝昌(弟)、吉良成高正室、大石房重正室

略 歴


1416年 0歳  上杉氏定の次男として誕生
1419年 3歳  兄・特定が死没し、扇谷上杉家の家督を継ぐ
1439年 23歳  永享の乱で関東管領・上杉憲実に従って持氏討伐に功績を挙げる
1440年 24歳  結城合戦で副将を務めて武功を挙げる
1449年 33歳  鎌倉公方が復興
嫡男・顕房に家督譲る。
出家し、「道朝」と号した。
1455年 39歳  享徳の乱が勃発
嫡男・顕房が戦死する(分倍河原の戦い)
1457年 41歳  河越城を築城し居城とする
1462年 47歳  堀越公方・足利政知と敵対関係になる
1467年 52歳  死 没

概 要

扇谷上杉家当主。上杉氏定の次男として誕生。永享の乱で山内上杉家・上杉憲実に従い鎌倉公方・足利持氏討伐で功績を上げた。その後、享徳の乱が勃発すると憲忠の弟・房顕を立て古河公方・足利成氏と対立。太田道灌に河越城築城を命じ、自らの居城とした。その後、享徳の乱の最中死去した。

扇谷上杉家の家督相続

1416年、上杉氏定の次男として誕生した。

持朝が生まれた年、「上杉禅秀の乱」で父・氏定が戦死、さらにその3年後、跡を継いだ兄・持定もまもなく亡くなったため、従弟で小山田上杉家の上杉定頼の補佐を受ける形で家督を継承した。

永享の乱での活躍

1439年の「永享の乱」(鎌倉公方・足利持氏VS関東管領・上杉憲実の対立)では関東管領・上杉憲実に従って持氏討伐に功績を挙げた。
翌年、1440年の結城合戦でも幕府軍の副将を務めて武功を挙げた。
結城合戦後、関東管領・上杉憲実は家督を弟・清方に譲ろうとするが清方の力不足を感じた室町幕府は憲実の引退を認めず、清方をその代理として位置づけ、その補佐として持朝の協力を要請した。

永享の乱後に持朝は修理大夫に任ぜられ、続いて結城合戦後、遅くても1447年までには相模守護に任ぜられた。
更に清方が急死して、憲実の子である憲忠が関東管領に就任すると、娘を憲忠に嫁がせたことにより、持朝は実力者として認められることになる。

享徳の乱

道朝の誕生

1449年、足利持氏の子の足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、持朝はかつて持氏を滅ぼしたことに遠慮し、嫡男・顕房に家督を譲って出家し、「道朝」と号した。

享徳の乱の勃発

1454年、娘婿で関東管領の・憲忠が成氏に暗殺され関東の大乱期である「享徳の乱」が勃発した。 持朝は憲忠の弟・房顕を新たな関東管領に擁して、自身は裏で実権を牛耳った。
1455年、分倍河原の戦い(足利公方VS山内・扇谷上杉)が起きると嫡男・顕房が成氏軍に討たれ戦死し、それ以降は持朝が再び当主として活動した。

これにより古河公方となった成氏と敵対関係となったため、成氏に対抗するために長禄元年(1457年)には家宰の太田道真・道灌父子に命じて河越城・江戸城、そして岩槻城の三城を築城させ、自らは河越城を居城とし、武蔵の分国化を進めた

堀越公方との敵対と最後

「享徳の乱」の最中1462年、今度は兵粮料所(兵量を徴収するために指定された特定の所領)の設置を巡る争いから堀越公方となっていた足利政知と敵対関係となる。
このため持朝は政知を支援する8代将軍・足利義政からの詰問を受ける。結果、持朝の代わりに責任を負う形で扇谷家の重臣である大森氏頼・三浦時高・千葉実胤が引退することになり、持朝の勢力は大いに低下した。
これを機に持朝は成氏と和睦して政知と争おうとしたが、その和議を果たせず志し半ばにして1467年9月6日、52歳で死去した。