「大浦三老」の一人に数えられた津軽家の重臣
隠居後も重大な政治事に関っていた

兼平 綱則かねひら つなのり

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 ポイント

  • 津軽家家臣、「大浦三老」の一人
  • 兼平氏は大浦氏の一族にあたる
  • 隠居後も重大な政治事に関っていた

誕生・死没

  • 誕生:不 明
  • 死没:1625年?
  • 享年:不 明

名 前

  • 休道(隠居後)

所 属

官職・役職

  • 官位:伊豆守

親 族

  • 父 : 兼平盛純
  • 子 : 兼平信秋
  • 子 : 兼平源八

略 歴

1571年…和徳城攻めや浪岡城攻めで武功を上げる
1579年…六羽川合戦・田舎館城攻めで武功をあげる
1614年…隠居するが重大な政事には関与した
1619年…信濃国川中島藩への国替えに反対する
1625年…死 去

兼平氏の始まり

兼平氏は、大浦氏当主・大浦盛信の弟である父・兼平盛純が兼平村(現在の弘前市兼平)を領し、そこに館(兼平館)を構え、兼平を姓としたことに始まる。

大浦三老の一人へ

元亀2年(1571年)5月5日、為信によって石川城や和徳城への奇襲が始まると信元もこれに参加し和徳城を攻略、城主となる大浦為信(津軽為信)に尽力し、数々の武功を上げた。参陣した主な戦としては和徳城攻め・浪岡城攻め・大光寺城攻め・天正7年(1579年)7月4日の六羽川合戦・田舎館城攻めがある。

隠居後

信元は数々の戦いに参陣し、天正3年(1575年)の大光寺城攻めでは泥に馬の足を取られた為信の窮地を救い、天正7年(1579年)の茶臼館戦でも夜襲をかけて敵勢を壊走させるなど、為信の戦国大名としての独立に大いに貢献し、兼平綱則、小笠原信浄らと共に大浦三老の1人になります。

参考資料(引用元)