南部氏から独立し、津軽地方を統一した武将

津軽(大浦)為信つがる(おおうら)ためのぶ

津軽為信

津軽為信 肖像画

  ポイント

  • 南部家から謀反を起こし大名に上りつめた
  • 裏切りの常習犯
  • 関が原合戦では真田家と同じ手法をとる

誕生・死没

  • 誕生:1550年
  • 死没:1608年
  • 享年:58歳

名 前

  • :扇(幼名)
  • :大浦弥四郎(元服前)
  • :大浦為信
  • :津軽為信

官職・役職

  • 従四位下・右京亮
  • 従五位下・右京大夫

親 族

  • 父 : 武田為信(実父)
  • 父 : 大浦為則(養父)
  • 母 : ?
  • 正室: 大浦為則の娘
  • 子 : 津軽信建
  • 子 : 津軽信建

  • 子 : 津軽信枚(家督相続者)

略 歴

1550年…久慈氏?大浦守信の子?として産まれる
1567年…大浦為則の養子となり、大浦城主となる。
1571年…石川城を襲い、城主の石川高信を自害させる(南部家からの独立)
1576年…大光寺城を攻め落とす。
1578年…浪岡上を落城させ、北畠氏を滅ぼす(安東家から非難を浴びる)
安東・南部・浪岡氏勢力との戦いである六羽川合戦が起きる
1585年…油川城を攻略し、津軽郡・青森市内沿岸沿いを制圧する。
1585年…日本海より海路を使って上洛を目指すが暴風いより断念する
1586年…陸路(秋田県大館市)より上洛を目指すが比内の浅利氏に妨害され断念する
1587年…南部領より上洛を目指すが南部氏に遮られてまたもや断念する。
1588年…秋田口から進んだが秋田氏に阻まれて、いずれも失敗し引き返している。
1589年…秋田実季と和睦し、家臣・八木橋備中を上洛させることができ、豊臣秀吉に名馬と鷹を献上、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)ならび合浦一円の所領を安堵された。
1590年…小田原征伐に参陣し秀吉に謁見する
南部家より惣無事令に違反と訴えられるが、早くから工作計略したおかげで、釈明が認められ独立した大名として認知されることに成功した
性を大浦から津軽に改める
1594年…居城を大浦城から堀越城へ移す
1597年…かつての盟友であった千徳氏を滅ぼしす。
1600年…関が原合戦では東軍に属すが、長男は秀頼の小姓だったため、真田家と同じくどちらが勝っても生き残れるような策をえらんだ。
1603年…弘前城の築城を開始する
1607年…京都で病死する。

大浦為信の出生

前置きとして、津軽(大浦)家の資料と南部家資料には史実の食い違いが多々あるため、はっきりとしない点が多い。津軽為信の出生に関しても、南部氏の支流である久慈氏のとも、奥州堀越城の城主・武田守信の子とも言われている。
為信が南部氏の支流てあったという見方は南部氏の資料に記述されている。また、津軽氏の資料の中に記述してある、豊臣秀吉から津軽氏に送られた手紙の中の宛名が「南部右京亮」と書かれている事から、津軽氏は南部氏の一族であった事と推測される。

南部家からの謀叛

出生でも記述した通り津軽氏と南部氏の資料には史実の食い違いが何点かある、津軽氏の謀反もその一つである。
まず、津軽氏の資料である「津軽一統志」では、1571年に為信は支城である堀越城から出陣し、石川城を工事を装いながら、攻略し津軽郡代の石川高信(南部晴政の叔父)を自害に追み南部家からの独立を宣言した。南部家ではこの頃、晴政と信直の家督争いが起きており、その隙に為信は周辺の国人を次々に攻め滅ぼした。※1浪岡城攻城戦では、調略を用いてこれを攻略し奥州の名家であった北畠家を滅ぼした。
一方で南部氏側での資料によると、石川高信が津軽に入ったのは1572年として、1581年に病死と記述されている。為信は高信から津軽代を受け継いだ次男の石川政信に仕えており、主君に取り入るため自分の実の妹を側女に仕えさせ、宴会の席で妹と共に政信を毒殺し、居城であった浪岡城を占拠したとある。
※南部晴政が対立する石川家の弱体化を図るため、津軽為信に独立をけしかけた説もある。

参考資料(引用元)