「大浦三老」の一人に数えられた津軽家の重臣
森岡 信元
森岡信元が城主を務めていた和徳城跡
ポイント
- 津軽家家臣、「大浦三老」の一人
- 森岡氏は津軽氏の庶流にあたる
- 晩年は為信と対立し暗殺される。
誕生・死没
- 誕生:1546年
- 死没:1600年
- 享年:56歳
所 属
官職・役職
- 無し
親 族
- 父 : 森岡信治
略 歴
1546年… | 森岡信治の子として誕生する | 1571年… | 為信が石川城や和徳城を落とし、和徳城城主となる |
1575年… | 大光寺城攻めで泥に馬の足を取られた為信の窮地を救う |
1579年… | 茶臼館戦でも夜襲をかけて勝利に貢献する |
1600年… | 梶仁右衛門によって久渡寺で暗殺された |
生い立ち
天文15年(1546年)、大浦氏(後の津軽氏)の家臣・森岡信治の子として誕生。森岡氏は大浦盛信の子・森岡為治を祖とする津軽氏の庶流であるとされる。父・信治は大浦為則の後見役にあたり、父の跡を継いで為則の婿養子・大浦為信(津軽為信)に仕えた。
和徳城の城主へ
元亀2年(1571年)5月5日、為信によって石川城や和徳城への奇襲が始まると信元もこれに参加し和徳城を攻略、城主となる
津軽家の重臣へ
信元は数々の戦いに参陣し、天正3年(1575年)の大光寺城攻めでは泥に馬の足を取られた為信の窮地を救い、天正7年(1579年)の茶臼館戦でも夜襲をかけて敵勢を壊走させるなど、為信の戦国大名としての独立に大いに貢献し、兼平綱則、小笠原信浄らと共に大浦三老の1人になります。
最 期
関が原合戦前に信元は為信から謀反の疑いをかけられてしまいます。そして、為信は関ヶ原出陣中に家臣が反乱するのを恐れ出陣前に、¥家臣の梶仁右衛門に命令し渡寺で信元を暗殺します。