南部氏からの独立を果たした津軽の戦国大名
津軽氏
津軽牡丹
出 自
津軽氏の出自には諸説あるが(南部氏側との資料の間で相違が多いため)1番有力なのが、南部氏が津軽地方を平定した際に安東氏の反抗勢力に対抗すべく、久慈から津軽地方に移り住んだ「大浦光浦」から家系を開始すると「津軽一統志」は伝えている。また光浦は南部氏の分家である、南部久慈の一族である。 南部家は甲斐源氏の流れをくむ家系なので、おのずと津軽氏も甲斐源氏系となる。
概 要
謀 反
津軽氏は元々「大浦」と姓を名乗る南部氏の家臣に過ぎませんでした。しかし1571年に南部家が内部抗争中(晴政と信直の争い)をいいことに、南部晴政の叔父にあたる石川高信が守る石川城を攻め落とすと、次々に周辺の豪族たちを次々に攻め滅ぼします。
1578年には東北の名門・北畠顕村の守る浪岡城を落城させ、顕村を自害させます。しかし、顕村の正室は安東愛希の娘だった為、安東氏との関係が悪化します。翌年1579年に安東・北畠・南部氏の連合軍との戦にが起こり勝利します。(六羽川合戦)
所領安堵
1589年には秋田(安東)家と和睦を果たし、念願の上洛を果たします。そこで豊臣秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽3郡ならびに会浦の所領を安堵されます。しかし南部家に惣無事令の違反で訴えられてしまいますが。何度も工作を行い釈明されます。
外交工作
この頃、為信は公家である近衛家に接近し猶子(親子関係)にしてもらい、本姓を藤原と名乗り、近衛家紋の牡丹にちなみ、杏葉牡丹の使用を許されます。つまり豊臣秀吉の義兄弟となります。さらにこの頃に姓を大浦から津軽に改めています。
その後は、九戸政実の乱の討伐や伏見城改修等功績をあげ、1594年には大浦城から堀越城へ居城を移している。
関ヶ原の合戦では、東軍に属していたが、しかし嫡男信健が豊臣秀頼の小性衆として大阪城にのこり、西軍が壊滅すると、三成の子重成達を連れて帰国している、つまり両軍生き残り策を取ったと考えられる。
その後、上野国に2、000石加増され、江戸時代を弘前藩として存続する。ちなみに桜で有名な弘前城は1603年に為信が築城を命じた城である。
家 紋
津軽牡丹
津軽万字
武 将 (名前クリックで詳細)
津軽為信 |
南部氏から独立果たし津軽地方を統治した。様々な謀略、暗殺を用いた勢力拡大に努めた |
津軽信建 |
津軽為信の嫡男。父の命により大坂城の豊臣秀頼に小姓として仕え、津軽家存続のため関ヶ原の戦いでは西軍(石田三成)についた。 |
津軽信枚 |
弘前藩2代藩主でキリシタン大名。為信の三男だが、2人の兄が幼くして世を去ったため父の死後家督を継ぐ。弘前城を築くなど、藩の基礎を固めた。 |
森岡信元 |
>津軽家家臣、「大浦三老」の1人に数えられる。為信の戦国大名としての独立に大いに貢献するが、為信から謀反の疑いをかけられ暗殺されてしまう。 |
兼平綱則 |
大浦家の庶流にあたる。大浦三老の一人として、津軽為信に尽力し、数々の武功を上げた。隠居するが、その後も重大な政事には関与したという。 |
小笠原信清 |
元々は信濃国出身の武士。さまざまな戦いで貢献したといわれており、森岡・兼平らと並んで、大浦三老の一人に数えられている。 |
乳井建清 |
乳井城の館主。南部家と敵対していたため、津軽家に巨従し津軽家の津軽地方統一に尽力する |
沼田祐光 |
上野国沼田の出身といわれている。武者修業のため全国を行脚していた際に、為信の器量を見込んで仕官し軍師となる。為信の津軽統一に貢献した。 |
服部康成 |
伊賀国の出身。関ヶ原合戦の際に召し抱えられ、大垣城攻撃戦にて武功を挙げた。のちに津軽家の筆頭家老となって藩政を取り仕切り「無類の良臣」と評された。 |