ポイント
- 飯坂宗定の子として誕生する
- 政宗の信頼が厚く人取橋の戦いで政宗の窮地を救った
- 二女が政宗の側室に迎えられている(飯坂の局)
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1589年
- 墓所:福島県福島市の天王寺
名 前
- 小太郎(幼名)
官 位
- 右近大輔、右近将監
所 属
略 歴
1576年 | ? | 相馬家との合戦 |
1584年 | ? | 二女が政宗の側室に迎えられる(飯坂の局) |
1586年 | ? | 人取橋の戦いに参陣し政宗の窮地を救う |
1588年 | ? | 郡山合戦に参陣 |
1589年 | ? | 田村領の警備に出兵 死没 |
概 要
伊達政宗に需用された人物。人取橋の戦いでは本陣に攻め寄せる敵軍に突入して力戦し、政宗の退却を助けた。
飯坂家とは
飯坂氏は伊達氏初代・伊達朝宗の四男・為家を祖先とする一族で伊達家の庶流に当たる名門であった。
「飯坂」の姓は為家の曾孫・政信が飯坂に居を構えたのが由来としている。
伊達家での活躍
宗康は伊達政宗の信頼が厚く、1584年に伊達政宗が伊達家の家督を継ぐと、二女が政宗の側室に迎えられた。(飯坂の局)。その後も各地の戦いに参陣し政宗からの重用された。
人取橋の戦い
1586年、人取橋の戦い(伊達VS佐竹・南奥諸大名連合軍)に参陣すると、政宗の本陣がある観音堂山近くに布陣した。
戦が始まると兵数に劣る伊達軍は潰走し、連合軍は伊達本陣に突入した。宗康は本陣に攻め寄せる敵軍に突入して力戦し、政宗の退却を助けた。
その後の活躍
1588年の郡山合戦では、小手森城攻めに参加したのち窪田城の防衛にあたり伊達軍の勝利に貢献し、1589年に岩城常隆が田村郡攻略のため出兵した際には、大條宗直らと共に田村宗顕への援軍として派遣され、田村領の警固にあたった。
しかし、1589年秋に病気のため死去した。その後、1575年に自らが再興した天王寺に葬られた。
宗康死去後の飯坂家
宗康には男子がおらず、飯坂家は一時断絶した。
しかし、1604年に飯坂の局(政宗の側室)が政宗の三男・権八郎を養子に迎え、飯坂家を再興した。
権八郎は伊達姓を拝領して伊達宗清と名乗り、黒川郡下草城主となって38000石を領した(吉岡伊達家)。