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伊達稙宗に仕え奥州守護代となった
桑折 景長(貞長)
ポイント
- 伊達家の宿老として伊達稙宗に仕えていた
- 天文の乱でが晴宗を擁立
- 奥州守護代となる
名 前
- 播磨守、伊勢守、宗茂
戒 名
- 凌雲院殿素白休意大居士
墓 所
- 仏成寺(山形県東置賜郡川西町)
所 属
官職・役職
- 官位:陸奥守護代
親 族
略 歴
1506年 | 1歳 | 桑折宗季の嫡男として生まれる | 1542年 | 36歳 | 時宗丸を越後守護・上杉定実の養子に送り込む案に反対する 天文の乱が勃発(景長は晴宗側に付く) |
1548年 | 42歳 | 天文の乱で晴宗が勝利する | 1555年 | 49歳 | 刈田郡万行楯城に移る | 1570年 | 65歳 | 中野宗時・牧野久仲父子が追放され景長が再び小松城主となる | 1577年 | 72歳 | 死 没 |
概 要
宿老として伊達稙宗に仕えてた。播磨守と称す。しかし、天文の乱では晴宗側に付いた。
晴宗が奥州探題となった際、牧野久仲とともに奥州守護代となった。これに対して鷹や馬、および黄金30両などを進上した。
桑折家
桑折氏・初代頼長は伊達氏3代伊達義広の子とされる。※4代伊達政依の子ともされる。
初代は鎌倉に居住していたとみられ、伊達氏が南朝の陸奥国式評定衆となると、根拠地の伊達郡に移住したと見られる。
天文の乱
1542年、主君・伊達稙宗が三男の時宗丸を越後守護・上杉定実の養子に送り込む案に反対し、中野宗時らと共に稙宗の長男・晴宗を擁立し、鷹狩りの帰路にあった稙宗を急襲して西山城に押し込めてしまった。ところが稙宗は小梁川宗朝によって救出されて娘婿・懸田俊宗の居城・懸田城へと脱出し、縁戚関係にある諸大名に救援を求めたため、奥羽諸大名を巻き込む大乱になった。「天文の乱」の始まりである。
景長は晴宗方の主力として戦った。
そして1548年に天文の乱が晴宗方の勝利に終わると、守護不輸権などの特権を獲得。さらに1555年、晴宗が奥州探題職に補任されると牧野久仲・石母田光頼と共に守護代となり、毛氈鞍覆と白傘袋の使用を許されるなど格式の上では家臣団中最上位に位置付けられた。
しかし、伊達家の実権は中野宗時が握っていたため、晴宗政権下での権力はその格式に比して小さなものであったとされている。
居城移転
1553年、晴宗による家臣団知行地の再編にともない、居城の小松城を牧野久仲に譲り渡して刈田郡万行楯城に移った。
しかし、1570年に中野宗時・牧野久仲父子が輝宗により謀反の疑いを掛けれれて伊達家を追放されていまうと景長が再び小松城主となった。
跡 目
当初、景長は稙宗の六男・宗貞を養嗣子として迎えていたが、1543年、宗貞が17歳で死去すると、相模国の遊行寺にて出家させていた実子の宗長を呼び戻して還俗させ、家督を継がせた。
そして、1577年9月19日死去。享年72歳であった。