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津軽家家臣として藩政を取り仕切った家老
服部 康成
ポイント
- 伊賀出身の忍者
- 津軽家の家老として活躍
- 藩政を取り仕切り「無類の良臣」と讃えられた
官職・役職
- 官位:長門守
親 族
父 | : | 服部正成? |
子 | : | 成昌、安昌 |
略 歴
1600年… | 津軽家に仕官 大垣城の戦いで武功をあげる |
1607年… | 津軽信牧の後見人となる 3,000石で弘前藩筆頭家老となる |
1609年… | 弘前城築城計画に参加 |
1625年… | 青森港開港の責任者となる |
1634年… | 船橋騒動が発生する |
1635年… | 死 没 |
概 要
伊賀国の出身だが詳しいことはわかっていない。関ヶ原合戦の際に津軽家に召し抱えられ、大垣城攻撃戦にて武功を挙げた。のちに津軽家の筆頭家老となって藩政を取り仕切り「無類の良臣」と評された。
出 自
康成の出自については史料不足により詳細はわからない。
一説によると、出身は伊賀国で徳川家康に仕えて「鬼半蔵」と称された服部正成の庶長子とも、同族ともいわれている。
津軽家以前
上記(出自)同様、康成が津軽家に仕えるまでの経緯はわからない。一説によると美濃国岐阜城主・織田秀信に仕えたが、のちに浪人して三河国に住み、その後関が原の戦いに従軍する為信の軍勢に参加した、とも伝わる。
津軽家家臣として
1600年の関ヶ原の戦いの過程で起きた大垣城の戦い(西軍の本拠地大垣城を東軍が攻撃した戦い)で、攻撃軍の武将である津軽為信に300石で召し抱えられ、武功を挙げたという。その後1,000石に加増され、奉行職(家老)となった。
津軽為信の死後
主君・津軽為信が死没すると幕府より2代・信枚の後見人を命じらた。
さらに、弘前藩から2,000石、幕府から1,000石(計3,000石)を領すると弘前藩筆頭家老となり藩政を統括した。
「無類の良臣」
康成は弘前藩の政策に多大な貢献をした。
1609年に弘前城築城計画に参加。1625年、青森港開港の町割り責任者を務めた。また、1630年、岩木山百沢寺(現・岩木山神社)山門、1631年、大平山長勝寺山門の新築の惣奉行を務めた。
このような功績により康成は津軽家「無類の良臣」と讃えられたといわれていたという。
死 没
1634年、弘前藩内の内乱(船橋騒動)が発生すると康成は筆頭家老としてこれの鎮圧にあたるが決着の前に病死した。