ポイント
- 津軽為信の三男
- 弘前藩2代目
- 弘前藩を築城するなど藩の基礎を固めた
官職・役職
- 官位:従五位下・越中守
略 歴
1586年 | 1歳 | 津軽為信の三男として誕生 |
1600年 | 14歳 | 東軍として関ヶ原の戦いにて |
1607年 | 21歳 | 家督を相続 |
1609年 | 23歳 | 弘前城の築城を開始 |
1611年 | 25歳 | 弘前城が完成 |
1613年 | 27歳 | 徳川家康の養女・満天姫を妻に迎える |
1614年 | 28歳 | 大阪冬の陣に参陣 |
1619年 | 33歳 | 信濃国川中島藩10万石への転封 |
1631年 | 48歳 | 死 没 |
概 要
弘前藩2代藩主でキリシタン大名。為信の三男だが、2人の兄が幼くして世を去ったため父の死後家督を継ぐ。弘前城を築くなど、藩の基礎を固めた。
出 生
1586年、陸奥津軽地方の戦国大名・津軽為信の三男として誕生。母は側室の栄源院(白取瀬兵衛の妹)。
1596年、父の命により兄の信建・信堅と共にキリシタンとなった。
関が原合戦
1600年、関ヶ原の戦いが起こると、津軽氏は父・為信が徳川家康方に、兄・信建が石田三成方につき津軽氏存続のため家中を二分した。
信枚は東軍側についたとされ、関ヶ原合戦図の東軍家康本陣には「卍」の旗が描かれており、これが信枚が家康本陣に詰めていたとされるする一史料とされている。
家督相続と天海への弟子入り
1607年、兄や父の相次ぐ死により家督を相続した。家督相続のお礼言上に江戸へ出向いた際、天海に弟子入りする。天台宗に帰依改宗して教義を学び、藩内に天台宗寺院を建立して天海の高弟を迎え、布教に尽力した。津軽藩の江戸藩邸は、天海のいる上野寛永寺そばに設けられ、後に津軽家の菩提寺津梁院となる。
津軽騒動
家督を継いだ信枚だったが1608年、兄・信建の遺児・熊千代(大熊)を擁する家中一派との、家督を巡る争いが起こる。
一時、津軽氏は取り潰しの危機にさらされたが、信枚は江戸幕府に対して親睦策を取り、幕府人脈および幕閣の対立を背景にしてこの争いに勝利し、改易の危機を免れたという。(津軽騒動)
弘前城
1609年には先代より整備が始まっていた鷹岡城(のち弘前城と城名が変わる)築城の正式許可が下りる。
これを受け、5万石に満たない大名としては破格の五層の大天守をも持つ城郭を、着工から1年2か月という早さで1611年構築し、城下に現在の弘前市に繋がる城下町を整備した。これは、幕府は北辺警備の都合も考慮して大城郭築城を許可したともいわれている。
辰姫と満天姫
1613年に天海の勧めで下総関宿藩主・松平忠良の妹であり、徳川家康の養女・満天姫(再嫁。前夫は福島正之)を妻に迎えた。これにより津軽氏は江戸幕府体制下での地位を固めた。(信枚には辰姫を正室としていたが、満天姫を迎えるにあたり正室から側室に降格させている。)
この辰姫は豊臣秀吉正室の高台院の養女という身分であったが、実父は石田三成であり、幕府に気を遣った措置、あるいは幕府側から津軽家の態度を試す措置であったといわれている。
しかし、信枚と辰姫の関係は良好で、信枚は参勤交代の度に訪ね、2人の仲は変わらず睦まじかったと伝わっている。1619年に辰姫は信枚の長男・信義を生み、1620年には満天姫も男児(信英)を生んだといわれている。
大阪冬の陣
1614年、大坂冬の陣に徳川方として兵を率いて参陣したが、家康は信枚に江戸勤番を命じた。後に弘前藩が編纂した『津軽一統志』では「津軽は北狄の圧(おさえ)(略)要服の地たるにより(略)在国を憑(たの)むところなり、早速帰国に及ぶべし」と帰国を命じられたことにされている。
弘前藩の基礎を築く
1628年8月に天海が天台密教での破邪の法から名付けた「弘前」と改めた。以降、藩名も弘前藩と呼ばれるようになった。
信牧らは弘前の街造りだけではなく、領内各所の開発を行った。1624年には陸奥湾の奥に青森港の港湾施設および街を構築し、蝦夷から上方、江戸との交易ルートを整備した。この青森港が現在の青森県庁所在地である青森市となった。
その他領内の新田開発、農地整備、新規人材登用も積極的に行い、弘前藩の基礎を整えた。
そして1631年1月14日、江戸藩邸にて死去した。享年48。