信直の家督相続に尽力した重臣
眼疾患で盲目だったという

八戸 政栄はちのへ まさよし

八戸城跡

八戸南部氏の居城・八戸城跡

  ポイント

  • 南部氏の一族である八戸南部氏の18代当主
  • 晴継亡き後の家督争いでは南部信直の家督相続に尽力する
  • 眼疾患で盲目だったという

誕生・死没

  • 誕生:1543年
  • 死没:1610年
  • 享年:67歳

名 前

  • 八戸政義(別名)

所 属

官職・役職

  • 官位:薩摩守

親 族

  • 実父 : 新田行政
  • 養父 : 八戸勝義
  • 兄弟 : 八戸政栄
  • 兄弟 : 新田政盛
  •  子  : 八戸直栄
  •  子  : 八戸直栄

略 歴

1543年…八戸氏の庶流・新田氏として誕生その後、八戸氏の養子となる
1582年…晴継が死去。南部信直の家督相続に尽力する
1590年…小田原征伐では南部信直に豊臣秀吉の下への参陣を薦める
1610年…死 去

生い立ち

1543年、八戸氏庶流である新田行政の子として誕生する。宗家である17代当主・八戸勝義に嫡男が居なかったため、八戸氏の養子となる。
ちなみに、政栄は眼疾患で盲目だったという

南部信直の家督相続

南部晴継が暗殺(病説説あり)されると、南部家では、晴政の二女の婿で一族の有力勢力である九戸実親と、かつて晴政の養嗣子でもあった信直の家督争いが勃発する、八戸政栄は北信愛の誘いを受けて南部信直につき、信直の家督相続に尽力したという。
このとき自身も南部一族であったため当主に擁立されかけたというが、北信愛の説得で辞退したという。

小田原征伐

小田原征伐では、信直に豊臣秀吉の下への参陣を薦めたという。政栄自身は信直に託されて三戸城の留守居を勤めた。このことから政栄は信直から絶対的な信頼を得ていたと思われます
そして1610年に死去します。