概 要
細川京兆家14代当主。
生まれは細川家の庶流阿波細川家だが、細川政元の養子となり細川京兆家の後継者となるが。養父・政元が死去すると、同じく政元の養子であった高国と家督争いが勃発しこれに破れ家督を解任された。
ポイント
- 京兆細川家14代目当主
- 阿波細川家・細川義春の子で細川政元の養子となる
- 義兄弟である細川高国に敗れ家督を解任される
誕生・死没
- 誕生:1489年
- 死没:1520年
- 享年:32歳
名 前
- 六郎(通称)
役 職
- 室町幕府 管領
- 丹波・摂津・讃岐・土佐守護
官 位
- 右京大夫
所 属
- 細川(京兆)家
- 阿波細川家
略 歴
1489年 | 0歳 | 阿波細川家・細川義春の次男として誕生 |
1495年 | 6歳 | 実父・義春が死去 |
1503年 | 14歳 | 細川政元の養子となる 元服 |
1506年 | 17歳 | 丹波国の一色家を攻める |
1507年 | 18歳 | 養父・政元が暗殺される 澄元が京都に侵攻して澄之とその支持者を打ち取る 澄元が細川京兆家の家督を相続する 細川高国と決裂する |
1508年 | 19歳 | 澄元が細川高国に破れ将軍・義澄と共に近江に逃れる |
1509年 | 20歳 | 京都に侵攻するが高国・大内義興に破れ阿波に逃走(如意ヶ嶽の戦い) |
1511年 | 22歳 | 再び京に侵攻するが大内義興の反撃にあい敗北(船岡山合戦) |
1518年 | 29歳 | 再三京都に侵攻し高国を追放すが大軍を集めた高国の逆襲にあい阿波に敗走 |
1520年 | 32歳 | 阿波勝端城にて死去 |
出生と阿波細川家
細川京兆家の庶流・阿波細川家に誕生する
1489年、澄元は細川氏の庶流である阿波細川家当主・細川義春の子として誕生した。
義春は阿波国守護を務めていたが、澄元が6歳の時に死去したため、祖父の成之に養育された。
。
阿波細川家
阿波細川家(詮春流)は細川氏の庶流であったが、当主は幕府の宿老会議にも度々列席するなど、京兆家に次ぐ細川家として高い身分であった。そのため京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波細川家は下屋形と呼ばれていた。細川政元の養子へ
独身を貫いた細川政元の養子になる
細川家の本家である京兆細川家の当主・細川政元は管領として幕府の重大な役職についていたが、生涯独身を貫いたため実子がいなかった。
そのため、摂関九条家からの養子・細川澄之を家督継承者としたが、細川家中では公家出身である澄之の家督相続に反対するものも多く、政元自身も澄之と関係があまりよくなかったため、政元は澄之を廃嫡し、澄元を養嗣子として迎え入れた。
その後、澄元は元服、11代将軍・足利義澄より偏諱を受けて「澄元」と名乗る。この際に京兆家の家督継承者に付けられる「元」の字を与えられていることから政元より嫡子(後継者)と見なされていたことがわかる(逆に廃嫡された澄之には「之」の字が与えられている)。
永正の錯乱
澄之の支持者によって養父・政元が暗殺される
政元の後継者となった澄元だったが、政元は、更に細川氏の一族である野州家より細川政春の子・高国を養子に迎えるなど、3人の後継者候補が並立する状態を作った。
そのような状況のなか、政元は澄之の支持者である香西元長や薬師寺長忠らによって暗殺されてしまう。
澄之を討ち将軍・義澄から正式に細川家の家督継承を認められる
政元が暗殺されたことによって澄元も澄之の家臣に屋敷を襲われ、三好之長と共に近江国青地城に逃走した。
しかし、すぐさま近江の国人の力を借りて勢力を盛り返し、京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、将軍・足利義澄に対して細川京兆家の家督継承を承認させた。
家督を継承したが家宰である三好之長の実力が大きくなと両者は対立する
細川京兆家の家督を継いだ澄元だったがまだ若年だったため、家宰であった三好之長の実力が逆に大きくなり始め、澄元は之長と対立した。
周防の大内義興が前将軍・足利義稙を擁立し上洛する
澄元と三好義興の対立により京都にて内乱が勃発すると、周防国に流れていた10代将軍(前将軍)・足利義稙は周防守護・大内義興に擁立されて上洛を開始する。
大内義興の上洛に危機を覚えた澄元は義興との和睦を画策したが、同じく政元の養子で澄之討伐に協力した細川高国が大内方に寝返ったため、決裂してしまった。
また、澄元は阿波守護家からの家臣を重用したため、元々京兆家の家臣であった者達も高国を擁立し高国派に属した。
両細川の乱
高国に破れた澄元は家督を剥奪され近江に逃走、家督は高国が継承する
1508年、澄元に反旗を翻した高国が京都に侵攻を開始した。
この時、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正、河内国の畠山尚順らも呼応したため澄元は敗北し、之長や将軍・足利義澄と共に山中為俊を頼って近江に逃れた。
翌月には摂津で抵抗を続けていた重臣・池田貞正や芥川信方(薬師寺元一・長忠の弟)、大和の赤沢長経が高国軍に討たれてしまう。その後、足利義稙が大内義興に擁されて上洛すると、将軍職に復帰した義稙によって澄元の家督は剥奪され、
代わって高国の家督継承が承認されることとなった。
2度も京都に侵攻するが高国や大内義興に破れる
1509になると大内義興と将軍・足利義稙が対立したため、澄元と三好之長はに京都に侵攻する。しかし、阿波国からの援軍を期待していた澄元だったが、これが実現せず逆に高国と大内義興の反撃を受けて敗北(如意ヶ嶽の戦い)澄元と之長は阿波に逃走する。
1511年には足利義澄、義兄弟の細川政賢(典厩家当主)や同族の細川元常(和泉守護)・細川尚春(淡路守護)、更に赤松義村(播磨守護)と連携して深井城を攻め(深井城の合戦)、一方では鷹尾城を攻め(芦屋河原の合戦)、その後京都に侵攻したが義澄が病死したこともあって、大内義興の反撃を受けて大敗を喫し、政賢は戦死し、澄元は摂津に逃走した(船岡山合戦)。この出兵は祖父・成之や三好之長の反対を押し切って出兵したものらしく、之長が阿波守護家存続を意図して高国陣営に内通しようとした気配があるとする指摘も出されている。
この出兵の直後に成之と之持が相次いで死去したため、阿波国内で混乱が発生し、澄元と之長は和解して阿波や讃岐における自勢力の安定に乗り出すことになる
政権を奪還するが短期間で崩壊し、失意のうちに死去する
1517年に三好之長が淡路の細川尚春を破り淡路手中に収めると、1518年に大内義興が周防に帰国した翌1519年に澄元と之長は摂津に侵攻(田中城の戦い)し。1520年には澄元に呼応して山城国で土一揆が発生する。
そして、将軍・足利義稙も澄元に通じて裏切ったため、細川高国は単独で近江坂本に逃れた。これにより、澄元政権が成立する。澄元は前の2度の出兵では得られなかった四国からの援軍を上陸させる構想を実現させたことが成功の背景にあったとみられる。
しかし、その数か月後、高国は大軍を集めて京都に侵攻する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて自害させられ、澄元も摂津伊丹城に敗走し、政権は短期間で崩壊した。
その後、高国の攻撃を受けて播磨に逃れた澄元は失意のうちに病に倒れ1520年に阿波勝瑞城にて死去した。