武蔵武士別府氏ゆかりの城

別府城べっぷじょう

別府城石碑 熊谷市東別府777


1.城データ

築城年

  • 15世紀半ば

築城者

     
  • 別府長清

別名

  • 特になし

天守構造

  • 無し

城郭構造

  • 平城

遺構

  • 曲輪、土塁、堀切

比高

  • 0メートル

廃城年

  • 16世紀後半

立 地

別府の地には三箇所の城跡が伝承されており、その内のひとつが県指定史跡別府城である。
別府城の北側は低地となり穀倉地帯が広がっていたと」され、また水路も発達していたとされる。つまりこの地は生産性も高く、さらに西側には幡羅遺跡がありこの遺跡にむかって交通網が整備されており交通の要所であったことが伺えられる。

構 造

現在、堀と土塁が方形に廻っており、その規模は東西が約90m、南北が約80mあり、北側と西側の堀と土塁が比較的よく残っている。郭の中はほぼ平坦となっている。
また現在の地形からこの方形の外側にも現在の郭を囲むように郭があったと推測される。

別府氏の居館

別府城には武蔵武士の「別府氏」が住んでいたとされる。別府氏は代々「忍城」を拠点とした成田家の家臣また庶流とされている。
別府氏の始まりは室町時代の成田助高の次男・成田行隆が別府の地に住み「別府」の姓を名乗ることに始まるとされている。 その後、行隆の子・能行と行助が領地の配分について争い、行隆が別府郷を半分ずつ分けるようにと遺言したと言い伝えられている。
別府城は行隆から能行に引き継がれ、戦国時代の長清まで数代にわたり住んだと伝えられている。
その後、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、北条側についたため家禄を失い別府城も廃城となった。