成田氏の居城で北武蔵支配の中心城

忍 城おしじょう

模擬御三階櫓 埼玉県行田市本丸635


1.城データ

築城年

  • 1478年

築城者

     
  • 成田顕奉(あきやす)

別名

  • 浮き城、亀城

天守構造

  • 御三階櫓

城郭構造

  • 平城

遺構

  • 土塁、堀、移築門

比高

  • 0メートル

主な城主

廃城年

  • 1871年

立 地

利根川と荒川に挟まれた沖積地にあり、起状のほとんどない平坦な地形に立地している。標高は20m前後で、周囲は一面湿気地帯であったと考えられる。
また、忍城の築城は1478年頃南方の埼玉古墳群の古墳の盛土を運ぶなどして行われたと考えられる。

構 造

城跡については文政年間作成のえず全体像を知る唯一のもので絵図の中にみる「忍城」は四方を沼に囲まれた連郭式の城郭で東側に水堀の中に長方形の出郭を配し、大手門を置いている。掻き上げ道(湿地を掘り上げて土盛りし作った通路)を伝わって三の丸へと連なる部分に徳川家康により褒められたと伝えられる縄張りが見られる。
 また、1509年連歌氏の宗長が忍城に立ち寄った時の様子を『東路の津途』に次のように記した。
「武州成田下総守顕奉にして(略)水郷也、館の巡り四方沼水幾重ともなく芦の霧がれ二十余待ち四方へかけて水鳥おほく見え渡りさまなるべし」

成田氏の居館

成田氏の始まりは平安時代に武蔵国・藤原基忠を祖とし、その後騎西郡や幡羅郡域に勢力を拡張した一族である。
熊谷市成田を本拠地としてこの地域を支配した成田氏は、その後1489年に「忍」の地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし「忍」に本拠地を移して室町・戦国時代を通じて埼玉西郡域の支配者として君臨した。

上杉氏からの攻撃

1559年上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏はこれに従い、1561年上杉謙信による小田原城攻めにも、当時の城主の成田長泰が参加している。しかし、その後の鶴岡八幡宮での関東管領就任式の席で上杉謙信から辱めを受け忍に帰城し、成田氏は上杉家から離反し北条氏に服従した。氏康はこの成田氏の姿勢を高く評価した。
しかし、1574年、上杉謙信に忍城を包囲され、城下に火を放たれたが、これを持ちこたえた。

石田三成の水攻め

1590年、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。忍城の城代は氏長の叔父・成田泰季だった。
豊臣方には石田三成を総大将に大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わったとされる。泰季は約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった。
周囲を沼地に囲まれ、忍の浮き城といわれる難攻不落の名城を攻めあぐねた石田軍は、埼玉古墳郡の丸墓山古墳の頂上に陣を張り、埼玉古墳群などの多くの古墳を掘削したりして 「石田堤」を築き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行った。
しかし、水が城内に入ることはなく水攻めは失敗に終わった。その後、小田原城が先に落城し忍城も開城することになる。