大崎家を混乱に陥れた大崎家の重臣

氏家 吉継うじいえ よしつぐ

織田信秀

  ポイント

  • 大崎家の重臣
  • 伊達家と通じ大崎家に混乱をもたらす
  • 大崎家滅亡後は伊達政宗に仕える

誕生・死没

  • 誕生:?
  • 死没:1591年
  • 享年:?

名 前

  • 直継(別名)
  • 弾正(通称)

所 属

官職・役職

  • 不 明

親 族

  •  父 : 氏家隆継
  •  子 : 冨田守実室

略 歴

1587年 ?  伊達政宗に内通
1588年 伊達政宗に援軍を要請(伊達家の介入)
1590年 ?  大崎家滅亡
伊達政宗に仕える
1591年 ?  死 没

概 要

岩出山城主。氏家家は代々大崎家に務めた家柄であったが、吉継は主家筋の大崎義隆に反し、家中に混乱をもたらした。1588年、吉継は伊達家に援軍を求め、伊達政宗の介入を許した。1590年に大崎家が滅亡すると伊達家に仕えた。その後、病没し氏家氏も滅びた。

大崎家を混乱へ

1587年末、同じ大崎氏の家臣である新井田隆景と対立して伊達政宗と内通した。
すると1588年に吉継は伊達氏に援軍を要請。伊達政宗は大崎領に大軍(約10000人)を侵攻させたが(大崎合戦)、黒川晴氏の裏切りで敗北し、吉継も大崎氏と和睦して帰参することとなった。

大崎家滅亡後

1590年、小田原征伐に参陣しなかったため、大崎氏は豊臣秀吉により改易さた。主家を失った吉継は伊達政宗を頼り伊達家の家臣となる。
そして1591年5月21日に死去したとされる。
また、異説として、小田原征伐中に吉継の死を知った政宗が小成田重長を岩出山城の城代として派遣したとする記録もあるため、実際には天正18年5月に死去した可能性が高い。