奥州の名門大崎家12代当主であり最後の当主
大崎 義隆
ポイント
- 葛西家や伊達家と争った
- 大崎家最後の当主
- 滅亡後は様々な武将に仕えた
誕生・死没
- 誕生:1548年
- 死没:1603年
- 享年: 56歳
名 前
- 特になし
所 属
- 大 崎 家
官職・役職
- 官位 : 左衛門佐
親 族
- 父 : 大崎義直
- 兄弟 : 黒川義康(黒川晴氏へ養子)
- 兄弟 : 妙英(最上義光の正室)
略 歴
1548年… | 大崎義直の子として誕生 |
1544年… | 養兄・義宣を攻める(天分の乱) |
1548年… | 再び養兄・義宣を攻める(天分の乱) |
1567年… | 義直が隠居し、家督を継ぐ |
1571年… | 葛西・大崎家の合戦が起きる(詳細は不明) |
1577年… | 再度葛西家との戦が起きる |
1586年… | 家内で内紛が勃発し、伊達政宗が軍事介入する。 |
1588年… | 伊達軍と戦が勃発し、これに勝利する。(大崎合戦) |
1589年… | 伊達氏の和議(傘下に下る) |
1590年… | 小田原征伐に参陣せず、豊臣秀吉に家を取り潰される。(奥州仕置)。 葛西一揆が起きる |
1593年… | 滅亡後は、蒲生氏?、上杉氏?、最上氏?に仕えたとされる |
1603年… | 会津にて死んだとされる。 |
出 生と天分の乱
1548年大崎氏11代当主、大崎義直の子として誕生する。
義直は、義隆が生まれる前に伊達稙宗から養子(大崎義宣)を迎えており、伊達家の「天分の乱」では、義直・義隆親子は晴宗側に付き、義宣は実父の稙宗側について争う事になる。やがて稙宗が隠居して晴宗が伊達氏を継ぐと、大崎領に居場所が無くなった義宣は実弟の葛西晴清を頼って逃げる途中に暗殺された。(これは義直の差し金と言われている。)
その後伊達氏は本拠を米沢に移したため圧力が減じ、葛西氏との領土争いについても優位に立つこととなった。
そして、1567年に家督を継いだと言われている(この頃に家臣に充てた所領宛行状が多く見つかっているため)
宿敵・葛西家との対立
天分の乱では、義隆の父・義直は晴宗の味方に付いたため、伊達家との関係は良好であった、それは義隆が家督を継いでも変わらなかった。また最上家とも始祖が同じ一族であり関係は良好だった。周囲の敵は「葛西家」だけであった。
大崎家と葛西家は、昔から紛争が絶えずそれは、義隆が家督を継いでも変わらなかった。1571年には葛西・大崎の合戦があり、葛西家が勝ったと文献が残っている。1577年にも葛西家の関心が反乱したことを口実とし、義隆は出兵して葛西家と戦っている。また、葛西家はこの頃に大崎家に和平仲介の使者を出しているが、義隆はこれに応じなかったと言われている。
大崎合戦
1586年、義隆の愛童・新井田隆景と伊庭惣八郎の争いにより勃発する。義隆は新井田隆景をたいそう気にいっていたため、反逆の罪で伊庭惣八郎を討ち取ろうと兵を挙げるが、伊庭惣八郎は大崎家の執事・氏家吉継を立ててこれに抵抗した。
氏家吉継は片倉景綱を通じて伊達家と内通し、さらには富沢氏、北では三迫氏が義隆に反抗したそして、1588年伊達家臣浜田景隆・留守政景らに率いられた伊達軍が攻むと、南東側から大崎領深く進攻し、大崎氏の主城というべき中新田城を攻略して、岩出沢の氏家に連絡を付けようとした。しかし大崎軍は中新田城を守り抜き、黒川晴氏が伊達軍を後方から襲い敵軍を撤収させた。
伊達家への従属
大崎義隆は伊達軍が去り孤立状態の氏家吉継にさらなる圧力強める。
氏家吉継は岩出沢から米沢に出て、伊達政宗に出兵を願いでたが、当時の伊達家は周囲に相馬・最上・蘆名といった敵を抱えて思うように戦力を集中できない状況にあり。出陣を悩んでいた。
一方大崎家の親族である最上家は伊達家がもし大崎領を併呑すれば、最上領は東と南の両面から圧迫されることになり、不利になると考え、伊達政宗の母・義姫(最上義光の妹)に依頼し伊達・大崎両家の潰し合いを防ごうと和議を働きかけた。その働きにより、4月16日に伊達と大崎の間で和議が整った。しかしこれは実質伊達家への従属を意味する和議だったといわれている。
しかし、その後摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼすと伊達氏は大崎氏への圧力を強め、家臣を寝返らせようと働きかけ、大崎攻めの計画を練り始める
そして滅亡
伊達政宗が大崎攻めの計画を練る中、豊臣秀吉の小田原征伐が始まった。上杉景勝が大崎家に事をなげうち上洛すべきだと勧める書状を出したりしたが、大崎義隆は秀吉のもとに宿老を遣わしただけでこれに応じなかった。そして、秀吉は参陣しなかった諸大名を取り潰す奥州仕置を実施した。使者を出すだけで本人が出てこなかった大崎氏も、取り潰されることになった。
滅亡後
この後の大崎義隆の行方については、断片的なことしかわかっていない。大崎左衛門あるいは大崎左衛門尉なる人物が蒲生氏、上杉氏に属したことが史料に見える。多くの歴史学者は、この人物が左衛門佐だった大崎義隆だと考えている。
その後、石田三成等が協力して御家再興を支援していた形跡があるものの、再興は実現しなかった。
朝鮮出兵では、蒲生氏郷の一手として大崎義隆に10人の手勢で従軍することを命じた。兵力は少ないが、秀吉から直接指令を受けているから、蒲生家には客分のような形で属していたと考えられる。
氏郷の死後、蒲生家で内紛がおき減封になると、今度は上杉家に属し2700石を貰っている史料が残る。そして、1603年会津において56歳で死んだとする資料がある。