南陸奥方面支配の総指揮を執り、内政、軍事、外交などに幅広い活躍を見せた

佐竹 義久さたけ よしひさ

佐竹東家の居城・武熊城跡
提供元:御城学のお城を学ぼう 様

  ポイント

  • 佐竹東家4代目
  • 南陸奥方面支配の総指揮を執り
  • 対豊臣家の外交を担当

誕生・死没

  • 誕生:1554年
  • 死没:1601年
  • 享年:49歳

名 前

  • 源六郎(幼名)

所 属

官職・役職

  • 官位:中務大輔
  • 官位:山城守

親 族

  •  父  : 佐竹義堅
  • 兄弟 : 佐竹義喬
  •  子  : 大塚権之介
  •  子  : 佐竹義賢
  •  子  : 小野崎宣政
  •  子  : 大関資増の正室

略 歴

1554年…佐竹義堅の次男として誕生
  
1572年…兄・義喬が死去し佐竹東家を継ぐ
  
1579年…武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に貢献する
  
1591年…豊臣秀吉に気に入られ「豊臣」姓を下賜される
  
1593年…文禄の役での活躍で秀吉から陸国の鹿島郡・真壁郡に6万石を与えられる
  
1601年…死 去

概 要

佐竹東家・義堅の次男。南陸奥方面支配の総指揮を執り、内政、軍事、外交などに幅広い活躍を見せた。石田三成を通じて豊臣秀吉とも親交を結んだ。また、家康との佐竹宗家の本領安堵の交渉も行った。

佐竹東家の相続

義久は父・義堅の次男だったため、家督を継いだのは兄・義喬だった。
しかし、義喬に嫡子が居なかったので、1572年に義久が継嗣という形で佐竹東家を継いだ。

佐竹家中随一の実力者

佐竹東家の当主となった義久は、本家の当主佐竹義重に従って南陸奥方面支配の総指揮を執り、各地を転戦し武功を挙げたという。
外交においても、相模国後北条氏に対抗するための甲斐国の武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に携わっている。
一族の重鎮として重用され、佐竹氏の陸奥方面の軍権を任されたという。

豊臣秀吉のお気に入り

後に、豊臣秀吉が中央政権を牛耳ると義久は石田三成を通じて豊臣秀吉に接近します。ここでも得意の外交能力を生かし、豊臣秀吉と良好な関係になり、秀吉直轄地の代官を務めた。1591年には豊臣姓を下賜され、朝鮮出兵では約一ヶ月の間、義久が佐竹勢1,440人を率いて出陣してた。
これらの功績により、秀吉から直接、常陸国の鹿島郡・真壁郡に6万石を与えられ、さらに豊臣氏直轄領1,000石の代官も務め、独立大名の処遇となった。

その後

関が原合戦が起きると佐竹氏は中立を保ったため、最初は家康から減封を命じられたが、義久の交渉もあり佐竹本家の本領安堵を取り付けたと言われている。しかし、その直後に死亡した。
義久の死亡には病死とも、家康により佐竹本家当主を義久とされることを嫌う勢力に暗殺されて死亡したとも伝わる。

参考資料(引用元)