佐竹東家として宗家・義昭を支え、北家や南家らと交代で家政を執行した

佐竹 義堅さたけ よしかた

佐竹東家の居城・武熊城跡
提供元:御城学のお城を学ぼう 様

  ポイント

  • 佐竹東家2代目
  • 幼少の義昭を補佐し国政を仕切る
  • 常陸国人の統制などで活躍

誕生・死没

  • 誕生:?
  • 死没:?
  • 享年:?

名 前

  • 源六郎(幼名)

所 属

官職・役職

  • 官位:左近将監

親 族

略 歴

1566年…那須資胤と高瀬で戦って大敗する。

概 要

佐竹家臣。東家・政義の嫡男。若年の宗家・義昭に仕え、北家・義廉や南家・義里らと交代で佐竹家の家政を執行した。1566年には那須家と戦い、敗れた。

佐竹氏家臣の重臣として

佐竹東家の佐竹政義の嫡男として誕生する。佐竹宗家・佐竹義篤とは従兄弟関係にある。
佐竹氏の分家である東家の当主として同じく分家である北家の当主佐竹義廉とともに本家の当主佐竹義昭の補佐を務め、国政を担当した。主に常陸国人の統制などで活躍したという。

降参嶺

1566年、下野国の戦国大名那須資胤と高瀬で戦って大敗し、治部内山で降伏した。このため、治部内山は降参嶺と呼ばれるようになったという。

参考資料(引用元)