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南部、伊達家が惚れこんだ豪勇
柏山 明助
花巻岩崎城跡
ポイント
- 柏山明吉の次男・柏山明宗の子
- 葛西家の滅亡後、南部氏に仕える
- 1000石の知行と花巻岩崎城代の地位を与えらる
- 南部家では並ぶ譜代老臣として重用されている
誕生・死没
- 誕生:1578年
- 死没:1624年
親 族
- 父 :柏山明宗
- 母 :和賀義興または和賀義忠娘
- 兄弟 : 柏山明知(弟)
- 兄弟 : 柏山明範(弟)
- 子 :柏山明定
- 子 :柏山明信
- 子 :柏山明道
略 歴
1578年… | 葛西氏の家臣・柏山明吉の次男・柏山明宗の子として誕生 | 1590年… | 葛西家滅亡 南部家に仕える |
1600年… | 岩崎一揆で和賀忠親の反乱鎮圧に貢献 |
1624年… | 死 没 |
概 要
柏山明宗(明吉の次男)の嫡男。主家滅亡後、南部家に仕える。岩崎城代を務め、和賀兵乱の鎮定などに活躍したが、剛勇ぶりを恐れた主君・利直によって毒殺されたとされている。
南部家での活躍
1590年、小田原征伐に遅参したため葛西氏が滅亡すると明助は南部氏に仕えた。
1600年に岩崎一揆が勃発すると明助は和賀忠親の反乱鎮圧で貢献、軍功を挙げ1000石の知行と花巻岩崎城代の地位を与えられた。その後、南部家内では北信愛らと並ぶ譜代老臣として重用された。
伊達政宗による暗殺計画
奥羽永慶軍記の「奥羽両国名有る陪臣」の項目では、南部信直の家臣である明助(伊勢守)の名が挙げられ奥州でも名のある豪勇で知られていた。
父の明宗は領地に善政を布いたため、その子である明助も領民に深く慕われていた。柏山家没落後、伊達政宗は領民に報奨を与え、明助を謀殺するよう命じたが、領民たちは与えられた金銭をすべて明助へ献上しただけでなく、密かに護衛までつけて南部領へ送り届けた。北信愛はこれに感じ入り、明助を客人として厚遇した。また、結果として領民たちに裏切られる形となった伊達政宗も、あえて彼らを咎めなかったという。
岩崎一揆
明助の岩崎一揆での活躍は戦場だけでなかった。家臣の折居嘉兵衛や旧交のある農民を細作として放ち、一揆勢の情報を収集させる等、諜報術でも貢献していた。
また、一揆の首謀者は明助の母親と親戚(和賀義興(義治)または和賀義忠の娘)とされている。事実であるなら明助と岩崎一揆の首謀者・和賀忠親は近い親戚であり、岩崎一揆は親戚同士が相争う皮肉な戦いだった事になる。
死 因
明助の死因には明助の実力を恐れた主君・南部利直がその実力を恐れての毒殺でもあるという説も伝えられている。