ポイント
- 葛西家屈指の実力者であり、軍事力をもっている
- 陸奥国胆沢郡大林城主
- 豊臣秀吉の奥州征伐にて戦死
誕生・死没
- 誕生: ? 年
- 死没:1590年?
- 享年: ?
名 前
- 明好
官職・役職
- 伊勢守
親 族
- 子 : 柏山 明国
- 子 : 柏山 明宗
- 子 : 柏山 明長
- 子 : 柏山 明久(折居明久)
略 歴
1542年… | 「天分の乱」では晴宗側につく | 1565年… | 内西根城主・新渡戸頼長を攻め滅ぼす | 1580年… | 息子である明国と明宗が後継者争いを引き起こす |
1590年… | 主君・葛西氏が小田原征伐に参陣しなかったため、改易させられる。 浅野長政に大林城を攻められて没落し,戦死したと伝わる。 |
柏山氏の出自
胆沢郡(今の奥州市の一部)大林城の城主。出自には諸説あり、葛西氏の一族で奥州合戦の際に葛西氏が陸奥に根付いたのと共にこの地に土着したという説、もう一説は元々奥州藤原氏に仕えていた豪族だったという二説がある。
戦国時代初期になると、家臣の中でいち早く領主化に成功し、家中の中心勢力になっていた。
天分の乱での柏山氏
「天分の乱」の頃になると柏山氏は主家である葛西氏を凌ぐ勢威を誇っていた。「天分の乱」では伊達晴宗に味方した。
この際明吉は、葛西晴胤の命で伊達氏内紛の仲裁に尽力したといわれている。
その後も柏山氏は主家・葛西家とは違う独自の行動をとり、葛西家からの独立も時間の問題だったと思われる。
家中内紛
1580年頃になると、柏山家ないで内紛がおこる、当時の当主・明国が横暴な性格だったため、家臣達が明宗を擁立して引退を迫ったのである、これに対して明国は引退を迫った家臣らを惨殺し、さらには隣国の長部氏を攻撃しするが大敗を喫してしまう。
この兄弟によう家督継承争いは、柏山家対重臣・三田氏の対立にまで発展するようになり、次第に柏山氏は勢力を衰退させていく事になる。
奥州平定と滅亡
1590年、大崎家との抗争や柏山氏等の不穏な動きなど領内の情勢が不安だったため、葛西氏は小田原征伐に参陣できず。豊臣秀吉によって改易されてしまう。そして奥州仕置きによって葛西家・柏山家は滅亡してしまう。
「柏山系譜」には、伊勢守明好が天正十八年仙北郡に落ちて死亡とあることから、明吉は「奥州仕置き」の際に戦死したと思われる。
しかし、明吉の孫・千代丸は叔父たちに後見され、長じて明助を名乗り南部信直の客分となったと言われ南部氏に重用されたと言われている。