奥州の有力大名、豊臣秀吉の「奥州仕置き」にて滅亡した大名

葛西氏かさいし

三つ柏

三つ柏

家系図

仙台葛西家図

盛岡葛西家図

年 表

家 紋

三つ柏

三つ柏

出 自

桓武平氏で、武蔵国(東京葛飾区)の豪族である秩父氏の一族・豊島氏の流れである。
「葛西系図」によれば、高望王の子・村岡五郎良文の孫中村太郎将垣が武蔵介藤原真枝を討った功によって下総の葛西郡を与えられたのが始まりと言われている。
その後、1180年に源頼朝が石橋山合戦に敗れて安房に逃れて以来、頼朝に属して戦功を挙げ1189年の奥州藤原氏攻めの際に軍功を挙げそのまま奥州に入封し磐井・胆沢・牡鹿の三郡を与えられたという。

奥州葛西氏の成立

南北朝時代になると本拠地を牡鹿郡の石巻に移し、南朝方北畠家に従って軍功をあげ江刺・気仙・本吉・登米・桃生を勢力下に収めることに成功する。

大崎家との争い

順調に勢力を拡大した葛西家であったが、14~15世紀頃になると奥州探題の大崎氏と争いが起こるになる。葛西家は居城を石巻城から寺池家に移し臨時体制をとることとなった。
戦国時代に入っても両者の関係は変わらず、毎年のように戦いを展開することになる。これに葛西家は伊達家と同盟を結ぶ共に大崎氏を討つという戦略をとった。

伊達家との同盟

葛西・伊達の同盟は伊達氏の男子が葛西氏の跡を継ぐことにより成立した。伊達成宗の息子と 伊達稙宗の息子である。

葛西家滅亡

戦国時代の後期になると葛西家内で内乱が多発する。そんな中1590年豊臣秀吉による小田原征伐が始まると葛西晴信はこれに遅参史書量を没収されてしまい、栗原郡左沼城に籠もって秀吉軍に一戦を挑んだが敗北

葛西家の系図の謎

葛西家の系図は現在30種以上存在しているといわれています。そのため、初代当主「清重」と17代当主「晴信」以外正確な名前が判明していません。その原因は豊臣秀吉による奥州仕置き、葛西大崎一揆の際に葛西家の史料が散ってしまった事が原因に挙げられています。現在判明している30種以上の系図を見てみても、歴代当主の名前に相違があったり順番がバラバラであり、それらを裏付ける史料が極端に少な事が揚げられます。もっとも信憑性がある系図としては、現在2系統存在しております。

なぜ、2系統が存在しているのか…2つの説が考えられます。一つは実は鎌倉時代初期からすでに「寺池系葛西家」と「石巻系葛西家」に分裂しそれぞれが宗家を主張していた説、もう一つは戦国時代末期に伊達氏から葛西家の跡継ぎとして養子縁組として送り込まれた人物がいたが、これに賛成する派閥と反対する派閥が対立したまま葛西家の滅亡を向かえ、その後も仇敵同士として交流が途絶えたため、二つのグループが独自に家系図を作成したため2系統存在するといわれている。

武 将 (名前クリックで詳細)

葛西晴胤
(1497-1555)

葛西氏第15代当主。伊達家のお家騒動(天分の乱)では、晴宗側の見方に付き、伊達家からの養子であり、兄である晴清と争う。

葛西親信
(1513-1560)

葛西家16代当主。晴胤の嫡男。寺池城主。父の死後、葛西家の家督を継ぐ。しかし、病弱のため、さしたる事跡も残せぬまま、治世わずか5年で病没した。

葛西晴信
(1534-1597)

葛西氏第17代当主。兄・親信が病没したため代わりに家督を継ぐ、伊達家との同盟関係を強化し、生涯、大崎家と争うが、小田原征伐に参陣できず、領地を没収され葛西家は滅亡する。

岩淵経文
(1496-1565)

岩淵家の8代当主。岩淵家は代々葛西家の重臣として活躍。その起源は秀郷流藤原氏の流れをくむ。鎌倉時代後期に、宗尊親王に仕えた下河辺定経が下総国猿島郡岩淵郷に住み、岩淵姓を名乗ったという。

武鑓重信
(1526-1591)

武鑓城主。富沢家の叛乱鎮定や、浜田家と熊谷家の兵乱鎮圧などに従軍し、活躍した。桃生郡深谷において弟の儀信とともに伊達政宗に謀殺された。

米谷常秀
(1535-1591)

米谷城主。常時の嫡男。米谷家は亀掛川千葉家の流れ。桃生郡深谷において弟(五男)・常忠、弟(七男)・信忠とともに伊達政宗に謀殺された。

浜田広綱
(1523-1592)

奥州葛西家の分家。気仙地方の旗頭で米ヶ崎城主。気仙沼の熊谷党と争い「浜田兵乱」を起こす。このときの、葛西家の戦後処理で所領を減らされたことに不満を覚え米ヶ城を乗っ取り、宗家に抵抗するが敗北した。

及川頼家
(1515-1564)

柏木城主。沖田及川党の頭領であった。1559年、千葉三郎信近と争い、これがきっかけで柏木城事件が発生。大原氏により及川党は討伐された。

柏山明吉
(?-1590)

大林城主。柏山家は奥州千葉家の一族。胆沢郡の惣領職を務め、家中屈指の軍事力を誇っていた。葛西・大崎一揆で総大将を務めた柏山明宗の父

柏山明長
(?-1586)

柏山明吉の三男。小山城主。弟・柏山明久とともに領内屈指の荒武者といわれる。1581年の柏山家内乱の際には家老・三田将監を殺害した。

柏山明久
(?-1590)

柏山明吉の四男(折居明久ともいう)。折居館主。領内屈指の荒武者といわれ、柏山家内乱の際には家老・三田将監を殺害。葛西・大崎一揆では叛乱軍の総帥となった。

柏山明助
(1578-1624)

柏山明宗(明吉の次男)の嫡男。主家滅亡後、南部家に仕える。岩崎城代を務め、和賀兵乱の鎮定などに活躍したが、剛勇ぶりを恐れた主君・利直によって毒殺されたとされている。

矢作重常
(1555-1591)

外館城主。浜田兵乱鎮定に功を立て、浜田家に代わって気仙郡の旗頭となった。この際、金の采配を許されたという。のちに伊達政宗に謀殺された。