死後の家督争いが”応仁の乱”の一因をつくった

畠山 持国はたけやま もちくに

概 要

畠山満家の三男、前将軍足利義持の偏諱を賜った。
持富の死後、持豊の子が持国親子に反抗し「応仁の乱」の一因を作った。

 ポイント

  • 畠山満家の三男。兄に「持国」、「持永」がいる
  • 持富の死後、息子らが持国親子と反抗が「応仁の乱」の一因となった

誕生・死没

  • 誕生:???年
  • 死没:1452年
  • 享年:???歳

官 位・役 職

       
  • 役職:尾張守

所 属

親 族

畠山満家
遊佐河内守の娘
兄弟 持国持永持永
政久政長

略 歴


1398年 0歳  畠山満家の嫡男として誕生
1429年 31歳  足利義教の元服式に参加
1432年 34歳  大和永享の乱で大和へ出兵
1433年 35歳  父・満家の死により家督継ぐ
1435年 37歳  大和宇智郡守護に任命
1441年 43歳  将軍・足利義教の命により家督を弟・持永に譲らさえる足利義教が暗殺される(嘉吉の変)
持永を討ち家督を奪還する
細川持之と対立
足利義勝が就任
関東管領となる
出家し徳本入道と名乗る
1442年 44歳  足利義尊を打ち取る
1443年 45歳  足利義政が8代将軍となる
1448年 50歳  弟・持冨を廃して庶子の義就を後継者とした(家中分裂)
1450年 52歳  関東で江の島合戦が勃発し仲裁にあたる
1455年 58歳  死去

出 生

☆ 畠山満家の子として誕生し、第4代将軍足利義持より偏諱を受ける

1398年、室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護の名家であった畠山満家の子として誕生する。
その後、将軍・足利義持より偏諱を受けて持国と名乗る。

1483年には6代将軍・足利義教の元服式に立ちあうなど幕府と密なつながりをもっていた。
そして、1433年、父・満家の死により畠山家の家督を継ぎ幕府の重臣として活動していくこととなる。

大和永享の乱

★ 和睦交渉を成立させて大和宇智郡守護に任命される

興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立が発端で起こった大和一国に広がった「大和永享の乱」が勃発すると、 持国は大和へ出兵し義教が延暦寺に軍勢を派遣させて包囲すると諫言して両者を和睦させた。
その功績により持国は大和宇智郡守護に任命された。

細川家との権力争い

★ 権力拡大を図る畠山家にたいして細川家が対抗。その結果各大名のお家騒動を誘発させた

持国は義教によって家督を追われた者達を復権させると同時に自らも勢力拡大を図った。
これに細川氏が対抗、義教に取り立てられた側に肩入れして各大名のお家騒動を誘発させた。

★ 各地のお家騒動

信濃守護・小笠原家では細川氏が擁立する小笠原宗康光康と畠山家が擁立する従兄の小笠原持長が対立した。

加賀では義教の怒りにふれ加賀守護を解任された畠山家が擁立する富樫教家成春親子が、細川家が擁立する教家の弟・泰高と対立。
※両家、決着がつかなかったため、加賀を北と南に2分割して、成春・泰高に分け与えた。
さらに近江、大和でもお家騒動が勃発した。

★ 対関東戦略

関東では、足利成氏と友好関係を築き鎌倉公方復帰に尽力し、江の島合戦でも仲裁にあたった。

 畠山家の内乱と晩年

★ 嫡子が居なかったため「応仁の乱」の一因となった家督争いが勃発する

嫡子が居なかった持国は、弟の持冨を後継者としていた。
しかし、その後、庶子の義就を後継者とし、持富を廃した。
その結果、一部の家臣の反対に遭い、新たに甥で持富の子の政久が後継者に擁立され家臣団は政久派と義就派に分裂、 義就派の遊佐氏が政久派の神保氏の屋敷を襲撃する事件が勃発するなど両派の対立は激化し、こうして「応仁の乱」の一因となる内紛が始まった。

★ 家督争いは義就の勝利におわるが…

当初は義就派が優勢であったが、畠山氏の弱体化を狙う細川勝元山名宗全により政久派が盛り返し、屋敷を焼き討ちされた義就は失踪、義就派の持国は隠居したが、義政の介入でに義就が上洛、政久は没落した。

その後、1455年に死去、享年58。家督は義就が継いだ。

 持国の死後

★ 畠山家での内紛が激化し「応仁の乱」が勃発

持国の死後、政長(政久の弟)と義就で抗争が激化、さらに足利将軍家や斯波氏の家督相続問題(武衛騒動)と関係して応仁の乱が発生する。大和でも国人が2派に分かれて激突、応仁の乱終結後も続いていくことになる。