概 要
ポイント
- 京兆細川家11代目当主
- 管領を23年務め幕政に影響力を及ぼす
- 応仁の乱の東軍総大将
- 細川政元の父
誕生・死没
- 誕生:1430年
- 死没:1573年
- 享年:44歳
- 墓所:京都府京都市の大雲山龍安寺
名 前
- 聡明丸(幼名)
- 六郎(通称)
- 龍安寺殿宗寶仁榮大居士(戒名)
官 位
- 従五位下右京大夫、武蔵守、従四位下
役 職
- 室町幕府 管領
- 土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護
所 属
同い年の人物
- 菊池為邦、熊谷堅直、北郷敏久
略 歴
1430年 | 0歳 | 細川持之の嫡子として誕生 |
1442年 | 13歳 | 父・持之が死去し家督を継ぐ |
1445年 | 16歳 | 管領に就任 |
1454年 | 24歳 | 畠山家で家督争いが勃発 |
1464年 | 34歳 | 山名家と対立 |
1467年 | 37歳 | 応仁の乱が勃発 |
1473年 | 44歳 | 死 去 |
出 自
室町幕府三管領のひとつで足利家の血を引く、細川家(京兆家)に生まれる
1430年、14代室町幕府管領・細川持之の嫡男として誕生した。
細川家は足利家の血筋で土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護を務めた名門中の名門であった。
家督相続と管領就任
13歳の若さで家督を継ぐとその3年後には管領に就任
1442年、父・持之が没すると、叔父の細川持賢に後見されて13歳で摂津・丹波・讃岐・土佐守護と家督を継いだ。また、将軍・足利義勝から偏諱を受けて「勝元」と名乗った。
また、16歳になると畠山持国に変わって管領に就任した。以来、没するまで計3回23年余り管領を歴任し、幕政に絶大な影響力を及ぼした。
周囲との権力争い
畠山家に対抗するため山名家と手を結ぶ
勝元が管領となった当時、細川京兆家は一族全てで9ヶ国の守護であったのに対し、山名氏は赤松氏を嘉吉の乱で滅ぼした功績から旧赤松領を併せて8ヶ国の守護になっていた。
また、この頃幕政を畠山持国に牛耳られていた勝元は畠山氏に対抗するため後に「応仁の乱」で対立する山名宗全の養女を正室に迎え山名家と手を結び細川氏の勢力を維持し、その強化を図った。
各地で細川家と畠山家の代理戦争が勃発
畠山持国が6代将軍・足利義教に家督を追われた元当主達の復帰を図ると勝元はそれに対抗して義教に取り立てられた大名や国人を支持した。
その結果、信濃で小笠原持長(畠山派)VS小笠原宗康・光康兄弟(細川派)、加賀では富樫教家・成春父子(畠山派)VS富樫泰高(細川派)、大和では興福寺別当経覚など(畠山)VS成身院光宣・筒井順永(細川)で争いが頻発した。
管領交代
1454年、畠山家の内乱の際に畠山義就の追討で功績を挙げた畠山政長が将軍・足利義政の信頼を得て勝元の後任で管領に就任した。
山名氏との対立
勢力を急速に拡大する山名家を危険視するようになり、細川と山名は次第に対立していく
対畠山家で手を結んだ細川勝元と山名宗全だったが、勢力を急速に拡大する山名家に危機を抱いた勝元は宗全の勢力拡大を危険視するようになり、斯波氏で家督争いが勃発すると斯波義廉を支持する宗全に対し、
勝元は義廉と対立する斯波義敏を支持した。
また、赤松氏再興問題に関しても再興に反対な宗全に対し勝元は積極的にこれを支援し赤松政則を加賀半国の守護にし、赤松家を再興させたほか、宗全は勝元と対立していた大内教弘・政弘父子、河野通春らを支援した。
さらに、跡継ぎのいなかった勝元は宗全の末子豊久を養子にしていたが、実子・政元が誕生すると、豊久を廃嫡して仏門に入れるなど関係の悪化は決定敵となり、東海・北陸・九州北部の諸大名の争いは、
細川派・山名派に二分されていった。
細川家と山名家は武力衝突が避けられないほど関係が悪化する
その後、宗全は追放されていた畠山義就を上洛させ、義政に赦免の許しを出させ、、義政に強請して勝元が支援する畠山政長の管領職を取り上げて出仕停止とし、代わりに宗全が支援する斯波義廉を管領にした。
その結果、細川と山名はお互い、武力衝突は回避できない状況となり、勝元は諸将を京都に収集して戦備を整え、宗全も諸将を上洛させこれに対抗した。
応仁の乱
応仁の乱での最初の衝突「御霊合戦」では静観を貫く
「応仁の乱」のきっかけは、畠山義就と畠山政長の家督争い「御霊合戦」だった。
これに対して宗全は義就を支援したのに対し、勝元は義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたため、御霊合戦では静観していた。このため、政長は敗れた。
遂に細川と山名が衝突「上京の戦い」
天皇を擁した宗全に対して、勝元は幕府を占領して将軍を擁し、西軍・山名方を攻撃(上京の戦い)、直ちに山名方が反撃に出たことにより「応仁の乱」が勃発した。
勝元は将軍御所を占拠して将軍と一族を保護し、さらに土御門天皇・後花園上皇も将軍御所に遷して、義政から宗全追討令を受領し西軍の山名勢を賊軍呼ばわりすることに成功する。
大内勢らが上洛し戦況は互角に
初めは東軍方の優勢で進んだが、大内勢らが上洛して西軍に加わり、その翌年には義政が伊勢貞親が復帰すると、
段々京都の戦闘が行われなくなる一方で地方に戦乱が波及、両軍はそれぞれの有力武将の寝返り工作へと戦略を変化させ、義視が西軍の総大将に祭り上げられ幕府がもう1つ出来上がるまでになった。
停戦失敗
1471年、勝元は西軍の有力部将だった朝倉孝景を越前国守護に任じて寝返らせ、1472年に宗全に和平交渉を試みるが、赤松政則らの反対により決裂する。
死 去
宗全の後を追うように没する
1473年、西軍優勢のなか宗全が死去すると勝元をその後を追うように死去した。
死因は病死と言われているが、山名派による暗殺説もある。
勝元の死後
勝元の死後、嫡男・政元が細川政国の後見の下で家督を継承し、1474年4月3日に宗全の孫・山名政豊と和睦を締結し「応仁の乱」が終結した。
人 物
多彩な才能の持ち主
禅宗を信仰し、龍安寺や竜興寺を建立し、鯉料理などにも精通していただけでなく、自ら医術を研究して医書である「霊蘭集」を著し、さらに和歌・絵画にも優れた才能を持つ文化人であった