乱世の中心にいた室町幕府将軍家

足 利あしかが

足利二つ引(あしかがふたつひき)

足利二つ引(あしかがふたつひき)

家系図

年 表

 1142年

足利荘の成立

 1180年

源頼朝の挙兵に参加し、その後幕府の有力御家人となる

 1142年

足利尊氏誕生

 1333年

後醍醐天皇の挙兵に応じて六波羅探題・鎌倉幕府を倒す

 1336年

室町幕府の発足

 1379年

義満が守護大名の弱体化を図る
管領・細川頼之を失脚させる

 1389年

土岐康行の乱が勃発し義満が鎮圧する

 1391年

山名氏を弱体化させる(明徳の乱)

 1394年

足利義満が義持(4代将軍)に家督を譲る

 1399年

室町幕府VS大内氏(応永の乱)

 1416年

上杉禅秀の乱(関東管領上杉VS鎌倉公方)が勃発
戦後、幕府と鎌倉公方の間に亀裂が生じる

 1423年

義持が義量に家督を譲る

 1425年

義量が死去し義教が6代将軍となる

 1439年

永享の乱(関東管領上杉、幕府VS鎌倉公方)鎌倉公方の大敗

 1441年

嘉吉の乱(幕府VS赤松家)により義教が殺害される足利義勝が7代将軍となる

 1442年

足利義勝が7代将軍となる

 1443年

足利義勝が死去
義政が家督を継ぐ

 1449年

義政が8代将軍となる

 1455年

享徳の乱(関東管領・上杉、幕府VS鎌倉公方)
幕府が鎌倉を落とす

 1466年

文正の政変

 1467年

応仁の乱

 1473年

義尚が9代将軍となる

 1477年

応仁の乱収束

 1486年

長享・延徳の乱

 1489年

義材が10代将軍となる

 1493年

義材が幽閉される(明応の政変)

 1508年

義材が将軍に復帰

 1508年

義材が管領・細川高国により将軍職をはく奪される

 1513年

義維が11代将軍となる

 1521年

義晴が12代将軍となる

 1546年

義輝が13代将軍となる

 1557年

北白川の戦い(幕府VS三好)

 1565年

三好軍に攻められ義輝が戦死(永禄の変)

 1566年

三好軍と松永軍との間で戦が始まる

 1568年

義栄が14代将軍となる
義昭が信長を連れて上洛し15代将軍となる
義栄が阿波へ逃亡する

 1569年

二条御所が完成
金ヶ崎の戦い

 1569年

姉川の戦い

 1572年

信長が義昭に対し異見十七ヶ条を送付
武田信玄が三河へ侵攻(三方ヶ原の戦い)

 1573年

義昭が信長から離反し挙兵する
信長が京都の入口である石山城と今堅田城を落とす
武田信玄が死亡
義昭が信長に降伏し京都から追放される(室町幕府の滅亡)

 1576年

義昭が毛利家の備後(鞆)へ移動する鞆
毛利家が反織田家として立ち上がる

 1582年

武田家が滅亡
本能寺の変

 1587年

秀吉の九州征伐に貢献し義昭が帰京し将軍職を返上する(秀吉に臣従)

 1597年

義昭死亡

家 紋

足利二つ引

堅二引両

出 自

清和源氏。源義家の子「義国」を祖先とする。
義国が義家から下野国足利郡足利荘を譲られて土着し、義国の子・義康が足利氏を称したのが祖。
義康は熱田神宮大宮司であった藤原季範の娘(季範長男・範忠の娘=源頼朝の母の姪)を妻にし源頼朝と親戚になり、頼朝の挙兵に参加し鎌倉幕府の有力御家人となった。
その後、足利氏は代々北条氏と姻戚関係を結び、上総・三河守護を務め一族は下野と三河に広がった。

室町幕府

1333年、足利尊氏が挙兵して建武政権の樹立に功をあげるが、やがて後醍醐天皇の新制に不満を持って離反、武家による政治を目指して室町幕府を開いた。
1392年、3代将軍・足利義満の時に南北朝を統一した。

室町幕府の衰退

義満の死後、室町幕府の権力は次第に弱体化し、代わりに守護大名の権力が増していった。
6代将軍・足利義教は義満の政治路線を受け継いで将軍権力の強化を行うが、そのあまりに強引なやり方は周囲の反発を招き、嘉吉の乱で殺害され、遂に将軍権力の衰退と権威の失墜が露呈する結果となった。

戦国時代

8代将軍・足利義教の時代には後継者問題などをめぐって応仁の乱が発生し、室町幕府は京都だけを支配する一地方政権に落ちた。
10代将軍・足利義稙「明応の政変」によって管領の細川政元に将軍職を追われ、以後の将軍は実権を奪われて名目的存在となり、有力大名の支持なくしては将軍の地位さえ保てなくなった。

13代将軍・足利義輝三好家との戦いに明け暮れ一時は勢力を取り戻しつつあったが、の後、足利将軍家では将軍の若死になども相次ぎ、第13代将軍・足利義輝の時代にわずかに将軍権力が復興される兆しもあったものの、永禄8年(1565年)5月に三好三人衆らによって殺害されてしまい、将軍は有名無実化した(永禄の変)。
義輝の弟・足利義昭は京都から脱出して近江の和田惟政を頼り、若狭武田氏朝倉氏を経て、美濃に移って織田氏の食客となった。そして信長に擁立されて15代将軍となった。 この時14代将軍であった義栄は阿波に逃れた。彼の系統は平島公方家と呼ばれた。
しかし、義昭と信長は次第に対立し、義昭は信長により京都から追放され将軍家は名実共に滅亡した。

室町幕府の滅亡

京都を追われた義昭は毛利氏の支配下にある備後鞆に亡命。秀吉の天下統一後に将軍職を辞めて出家、秀吉から山城槙山で1万国を認められた。
義昭の子、義尋の男子は全て出家し、足利将軍家の直系は絶家した。

主な本拠地

  • 二条御所【京都】
  • 槙島城【京都】

武 将 (名前クリックで詳細)

足利義持
(1386-1428)

室町幕府4代将軍。

足利義量
(1407-1425年)

室町幕府5代将軍

足利義教
(1394-1441)

室町幕府6代将軍

足利義勝
(1434-1443年)

室町幕府7代将軍。

足利義政
(1436-1490)

室町幕府8代将軍

足利義尚
(1465-1489)

室町幕府9代将軍

足利義材(義稙)
(1466-1523)

室町幕府10代将軍

足利義澄
(1481-1511)

室町幕府11代将軍

足利義晴
(1511-1550)

室町幕府12代将軍

足利義輝
(1536-1565)

室町幕府13代将軍

足利義栄
(1538-1568)

室町幕府14代将軍

足利義昭
(1537-1597)

室町幕府15代将軍