概 要
山名家当主。赤松師討伐の功績から山名氏の勢力拡大に成功する。応仁の乱では足利義尚の後継人となり西軍総大将になる。
ポイント
- 山名家当主
- 野洲細川家・細川政春の子で細川政元の養子となる
- 義兄弟である細川澄元にに勝利し家督と管領職に付く
- 細川晴元に敗れ自害する
誕生・死没
- 誕生:1404年
- 死没:1437年
- 享年:70歳
- 墓所:京都市左京区の南禅寺福地町の真乗院
名 前
- 持豊(初名)
- 宗峯(号)
- 宗全(号)
- 「赤入道」(あだ名)
役 職
- 室町幕府侍所頭人
- 山城・備後・安芸・伊賀・播磨の守護
官 位
- 正四位下左衛門佐、従三位右衛門督
主君
- 足利義持→義量→義教→義勝→義政→義尚(義煕)→義視
氏 族
同い年の人物
- 山中幸久
親 族
父 | : | 山名時熙 |
母 | : | 山名氏清の娘 |
兄 弟 | : | 満時、持熙、持豊(宗全) |
子 | : | 教豊、是豊、勝豊、政豊 |
時豊、豊久、娘(斯波義廉室) | ||
娘(六角高頼室)、娘(吉良義藤室) | ||
養 子 | : | 細川勝元の正室(山名熙貴の娘) |
大内教弘の正室(山名熙貴の娘) |
略 歴
1404年 | 0歳 | 山名時煕の三男として誕生 |
1413年 | 9歳 | 元服し持豊と名乗る |
1420年 | 16歳 | 長兄・満時が死去 |
1421年 | 17歳 | 初陣 |
1433年 | 29歳 | 家督を相続し但馬・備後・安芸・伊賀の守護大名となる |
1437年 | 33歳 | 反乱を起こした持豊を鎮圧 |
1439年 | 35歳 | 正四位下左衛門佐に任官 |
1440年 | 36歳 | 幕府侍所頭人兼山城守護となる |
1441年 | 37歳 | 将軍・足利義教が赤松満祐に殺害される 赤松家を討伐しその功績により播磨国の守護となる |
1442年 | 38歳 | 出家して宗峯と号す※長禄年間に宗全と改める |
1443年 | 39歳 | 山名熙貴の娘を猶子に迎えて大内教弘に嫁がせる |
1447年 | 43歳 | 熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせる |
1454年 | 50歳 | 畠山持国を失脚させ幕政の頂点にたつ 足利義政と対立し家督を嫡男・教豊に譲り幕政から撤退する |
1458年 | 54歳 | 幕府から許され再び幕政に復帰する |
1462年 | 58歳 | 幕政を巡り細川勝元と対立する |
1466年 | 62歳 | 細川勝元と協力し政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる |
1467年 | 63歳 | 応仁の乱が勃発 |
1472年 | 69歳 | 家督を政豊に譲る |
1473年 | 70歳 | 死 去 |
出 生
山陰地方の名家・山名家の惣領家で誕生する
宗全は1404年、山陰地方の名家で四職の家柄である山名家の当主・山名時熙の三男として生まれる。
生誕の地は現在の兵庫県豊岡市である。
元服と初陣
1413年、10歳で元服し4代将軍・足利義持の名の一字を賜り、持豊と名乗った。
初陣は1421年、持父の従弟に当たる因幡守護・山名熙高と共に備後国人の討伐であった。
家督相続
次兄・持煕が将軍の怒りをかったため、宗全が家督を継ぐ
1420年、長兄満時が死去したため山名家で後継問題が浮上した。父・山名時熙は宗全を後継者にしようとするが、6代将軍・足利義教は次兄・持熙を後継に立てるように命じたため、山名氏内での家督争いが勃発しそうになる。
しかし、持熙が義教の怒りをかったため、宗全が後継者となり1433年に家督を相続、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。
家督相続に不満を持った兄・持煕が挙兵する
宗全が家督相続してから2年後、持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、宗全はこれを鎮圧して領国支配を固めた。
その後、1440年、幕府侍所頭人兼山城守護となる政治的地位を固めていった。
嘉吉の乱
将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺される
1441年、宗全は足利義教と共に播磨・備前・美作守護・赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害してしまう(嘉吉の乱)
宗全は抵抗せずに脱出したという。
赤松満祐討伐軍の大将となる
宗全は領国の播磨で挙兵した満祐を討つため、同族の山名教清・山名教之や嫡男の教豊と共に討伐軍を率いて但馬から播磨へ侵攻し乱を鎮圧した。
恩 賞
宗全は乱鎮圧の功績により赤松氏の領国を加えて播磨を獲得、5ヶ国の守護となり(教清は石見・美作、教之は伯耆・備前を領有)、山名熙高の因幡も合わせて10ヶ国の守護職を回復して権勢を得た。
だが、一方で赤松満祐を討つ前から持豊は勝手に自らの守護代らを播磨に送り込み、同国内の所領を横領するなど、幕命を無視する行動を続けており、公家の万里小路時房は持豊が守護に任じられれば「一国滅亡」になると嘆いている。
応仁の乱まで
出家し宗全と名乗る
1442年、持豊は出家して宗峯と号し、長禄年間に宗全と改めた。
赤松氏の領国拡大
東播磨の明石郡、美嚢郡、加東郡3郡は満祐の従弟の赤松満政が代官になっていたが、宗全は幕府に申し出て1444年にこの3郡も領有した。
これに不満を抱いた満政が播磨へ下向したが、1445年に満政を討伐、東播磨を実力で領有した。
このような宗全の強引な手法は「赤入道」と呼ばれ世間から反感を買っていた。
細川と山名両家が幕政のトップに
1443年、「嘉吉の乱」で殺された山名熙貴の娘を猶子に迎えて大内教弘に嫁がせ、1447年にも熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結び勝元と共に畠山持国に対抗した。
その結果、1454年にお家騒動で足元が揺らいだ持国を失脚させることに成功、勝元と共に幕政の頂点に立った。
足利義政との対立
1454年、細川勝元の同族が赤松家再興を将軍に願いでたため、その対応を巡り8代・将軍足利義政と宗全は対立、義政は諸大名に宗全退治を命じた。
だがこの討伐は、細川勝元の取り成しで宗全退治は中止され、宗全は家督と守護職を嫡男の教豊に譲り、但馬へ下国した。
結局、但馬で4年間過ごし、1458年に赦免されて再び上洛、幕政に復帰した。
細川家との対立
三管領家の畠山家で家督争いが勃発すると、勝元は畠山政長を支持するのに対して宗全は畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持したため、幕政を巡り婿である勝元と対立するようになった。
斯波義廉のみならず、大内氏や一色氏など「反細川勢力」と呼ぶべき諸大名は次第に宗全と関係を深め、宗全は彼らの盟主的存在となっていった。
応仁の乱
細川家と協力し政所執事を失脚させる
1466年、宗全は勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる「文正の政変」を行った。
応仁の乱勃発
1467年、畠山家の家督騒動では政元が支援する畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となった。
さらに御霊合戦では義就に加勢し、政元が支援する政長を駆逐させた。勝元も巻き返しを図り、
宗全と対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ是豊も備後へ侵攻、双方で散発的な衝突が起こり、「上京の戦い」をきっかけに応仁の乱が始まった
戦いの経過
「応仁の乱」が始まると宗全は出石此隅山城に各国から集結した西軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。
当初室町亭の将軍らを確保した勝元率いる東軍に対して劣勢であったが、周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。
死 去
1472年、宗全は勝元に停戦・和平を申し入れるが赤松政則の抵抗などで失敗、その際に宗全は自害を試みている。
その後、宗全は家督を政豊に譲り、翌年に失意のうちに陣中で没した。
人 物
性 格
性格は激情・横暴・傲慢とされ、嘉吉の乱で赤松氏討伐に向かうまで部下の兵士が洛中の土倉・質屋を襲撃した事件で管領の細川持之から抗議されたことがある。しかし宗全はのらりくらりとした態度をしたため、激怒した持之が宗全をも攻めようと強硬な態度を見せたため、ようやく陳謝した。
心優しい一面もあり、病気の家臣を労わったり、死去した家臣を悼んだりしている。
また、将軍の足利義政との対立を決意して分国の兵力を動員したとき、垣屋・太田垣ら13人の家臣が上意に背くことの非を説いて諫め、それでも戦うなら我らは出家して高野山に上ると言い出した。それに対して宗全は娘婿の斯波義廉と共に切腹するが、お前たちは留まれと述べた。宗全は家臣を道連れにすることを恐れて言ったのだが、この発言で逆に家臣らは宗全と行動を共にすることを決意したという。
山名軍
宗全には政治欲は乏しく、専ら軍人としての性格が強かったという。宗全時代の山名軍は兵力も多くて能力も強く、幕府がたびたび横暴のあった山名軍をそれでも幕府体制の中に組み込んでいったのは強大な軍事力が他の大名を圧倒していたためという。
「例」より「時」
1550年代に成立されたとされる『 塵塚物語』では、応仁の乱の最中に訪問した公家が先例を引き合いに出して意見したところ、「これからは例という字を時に置き換えたらどうか」「先例というが、あなたが没落して私と対面している今こそ時を重視すべきではないか」と言ったとするエピソードが書かれ、時勢を重視する宗全を表す逸話として引用されている。